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●解説のページ【神々篇】

 

 

□「天照大神」

□ 天照大神荒魂-天照大御神荒御魂 あまてらすおほみかみのあらみたま

 三輪山に祀られる神が大己貴神の「幸魂奇魂」であることは『日本書紀』に記されている。また別の神の和魂および荒魂についても記され、神霊にはこれら和魂荒魂幸魂奇魂のいわゆる四魂の別があるとされるが、古典において四魂が語られるのはごく一部の特定の神々でしかない。その数少ない神の一柱が天照大神であり、その和魂と荒魂が『日本書紀』に見える。
 天照大神の荒魂は、神功皇后が三韓征討を終えて帰朝したとき、武庫川河口の港で神意を伺った際に語られる。天照大神により「我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」とする託宣があったため葉山媛に祀らせたとあり、この伝承を創建の由来としているのが兵庫県西宮市の廣田神社である。廣田神社では主祭神を「天照大御神之荒御魂」とし、またその名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命ともしている。この後者の神名は皇后が三韓征討を果たす前、仲哀天皇の崩御後に皇后が神主となって神意を探ったとき、懸かった神が「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と名乗ったとあって、明記されているわけではないがこの神が天照大神の荒魂ではないかと考えられている。
 天照大神が「我が荒魂をば、皇后に近くべからず」と指示したのはなぜだろうか。皇后の文字は写本によっては皇居となっているらしいが、どちらにしても、天照大神荒魂は皇室から遠ざけられなければならないらしい。単純に考えれば、荒魂はまさに征討の場面などにおいて猛々しく動的な働きをする魂とされているため(本来的には荒は神威の現れを意味するともいう)、平常時に活動されては困るわけである。しかし荒魂だけでなく伊勢神宮も都から離れて祀られていることと、同じ根拠があるのかもしれない。ただ基本的には、あまりにも尊いものは無礼が及ばないように遠ざける、という考えはあって、政治的な理由ばかりが原因ではないだろう。仏教の秘仏も同様の思想である。
 なお神宮では内宮別宮の荒祭宮に天照大神荒魂が祀られているが、平安時代の長元四年、大雨と雷光の中で斎宮に天照大神荒魂が懸かり、天皇に敬神の念がないことを糾弾する託宣があった(小右記)。荒魂の名にふさわしい逸話といえよう。

□ 枉津日神-禍津日神 まがつひのかみ

​ 神名に「禍」の字が用いられているように、通常は災禍を司る悪神と見なされている。禍津日神は『古事記』の表記で、『日本書紀』における枉津日神の表記でも「枉」は曲がっていること、正しくない事を意味する。禍津日神を災禍の元凶と位置づけたのは本居宣長だが、宣長没後の門人となる平田篤胤はこの神に禍が由来するのではなく、穢れがあれば憎んで荒ぶる神であって悪神とは限らないと考え、そのような理解に賛同する宗教家や研究者もいる。

 神話等に登場する機会は少ない。『古事記』では伊耶那岐命が黄泉から戻って禊をしたとき、「成り坐せる神の名は、八十禍津日神。次に大禍津日神」とあり、「其の穢繁国に到りし時の汚垢に因りて成れる神なり」と説明されている。つまり黄泉国の穢れによって現れた神であって、『日本書紀』でもほぼ同様の記述なのだが、記紀ともに具体的な活動が語られることはない。
 ただし禍津日神の名が反映されたと思われる地における伝承なら、記紀に見ることができる。允恭天皇記によれば氏姓の過誤を正すため、「味白檮の言八十禍津日の前に、くかへを居ゑ」たとあり、つまり飛鳥の甘樫丘の言八十禍津日前という岬で言の真偽を確かめるため盟神探湯を行ったというのである。同様の記事は允恭天皇紀にもあるが岬の名は辞禍戸碕(正しくは石偏に甲)という。記の地名から盟神探湯と禍津日神が関係するなら、禍津日神がもたらした氏姓の乱れという災厄を祓った(本居宣長)、または氏姓の嘘に対して禍津日神が熱傷という災厄を与えた(折口信夫)、と理解は分かれる。災禍の元凶としての悪神か、過誤への罰をもたらす神か、という違いである。
 紀紀を離れるなら、『延喜式』の御門祭祝詞に、「四方四角より疎び荒び来む、天の麻我都比と云ふ神の言はむ悪事に、相まじこり相口会へ賜ふ事無く」という文言が見える。この天麻我都比神は明らかに悪神として語られ、人に悪事を語りかけるという働きには記の「言八十禍津日」との関連を思わせるが、黄泉の穢れから出生したという伝承の神とはそぐわないようにも思える。なお言葉との関連としては『古事記』に、出雲大神を拝めば口のきけない本牟智和気御子が話せるようになるという神託の是非を確かめるため、曙立王が甘樫丘の岬で宇気比を行ったという記事がある。ここに禍津日神は登場しないとはいえ、盟神探湯とのつながりを思わせる。

□ 瀬織津比咩神 せおりつひめのかみ
 記紀などの神話には登場しない。この神の名が見えるのは『延喜式』の六月晦大祓すなわち大祓詞で、祓われた罪穢れが神々によって運ばれて消滅する過程において、「高山短山之末より佐久那太理に落多支川速川の瀬坐す瀬織津比咩と云神、大海原に持出なむ」という箇所にのみ語られる。すなわち激しく落ちる速川の瀬にいて、罪穢れを大海原に運びやる働きをするのが瀬織津比咩神である。
 この女神は、前項の天照大神荒魂や禍津日神と絡めて語られることがある。三神を結びつけている古い文献は鎌倉時代に成立した大祓詞の註釈書『中臣祓訓解』においてで、瀬織津比咩神について「伊奘那尊化神、名八十枉津日神是也、天照大神荒魂號荒祭宮、除悪事神也」と説明している。つまり瀬織津比咩神と禍津日神と天照大神荒魂を同一とし、悪事を除く神としているのである。
 この『中臣祓訓解』は仏教系神道説の両部神道の影響下で作成されたと思われるが、同時期に成立した伊勢神道に大きな影響をもたらした。伊勢神道で基本かつ最重要視される「神道五部書」において、伊勢神宮内宮の荒祭宮に祀られる天照大神荒魂について別名を瀬織津比咩神としたり(御鎮座次第記・御鎮座伝記)、加えて禍津日神とも同一だともしている(倭姫命世記)。
 本居宣長は基本的に上記の神道五部書を、奥書に記されているような上代の成立ではないという意味で偽書だと判断しているが、三神を同一とする見方についてはおおよそ認めている。認めた上で禍津日神はこの世の災禍の元凶と断じているわけである。この詳細は別の機会に譲るとして、瀬織津比咩神と禍津日神を同一の神とする根拠について少し挙げておくなら、『大祓詞後釈』に「此神の御名の瀬織は、瀬降にて、かの大御神の、於中瀬降迦豆伎たまふ、とある意の御名なり。かくて此神すなはち禍津日神なり」と宣長は述べている。瀬織津比咩神という名は伊耶那岐命が禊のために川の瀬に降りたことを意味しているから、このとき最初に現れた禍津日神と同一とする理屈である。

 天照大神荒魂は敵を退ける勇猛な働きをし、禍津日神は前項に述べた説のように盟神探湯の神なら過誤を退ける働きをする神とも考えられる。「除悪事神」として瀬織津比咩神と同一に見なす説は、あながち中世特有の混沌とした思想によるとばかりは言えないのかもしれない。

□ 直日神-直毘神 なほひのかみ/なほびのかみ
 伊耶那岐命の禊によって禍津日神が出現したことに続き、「次に其の禍を直さむと為て、成れる神の名は、神直毘神。次に大直毘神」として直毘神が現れる。『日本書紀』の表記では神直日神と大直日神。禍津日神の禍を直す働きをするというが、禍津日神と同様、記紀ともにこれ以上は語られない。
 式祝詞においては大殿祭に「言寿ぎ鎮め奉る事の漏れ落ちむ事をば、神直日命大直日命聞き直し見直して」という表現で登場する。称え奉る言葉に足りないところがあるなら聞き直し見直して収めて貰えるよう、直日神に願うのである。御門祭祝詞の「天の麻我都比と云ふ神」が人に悪事を言い掛ける神で、この直日命は人の言葉を直す神とされるように、記紀神話で黄泉の禍から現れその禍を直す禍津日神と直毘神は、式祝詞においてはともに言葉に関わる神となっている。ここに信仰の変化があったのか、それとも本来から言葉の上に働く神であったのかは、明確ではない。ただし禍津日神の項で述べたように『古事記』の禍津日神も言葉との関わりが深いことは興味深いところだろう。
 禍津日神と直毘神は言葉の上に働く神である、との積極的な理解を示したのは折口信夫である。たとえば「上世日本の文学」(昭和十年)に、「間違うたよごとの効果、即、禍を現す神として考へられたのが大禍津日神であり、(略)詞が間違うて居ると禍が起るので、其誤つて発したよごとの効果が生ぜぬ中に直毘神の出現を祈る」といい、すなわち人の言葉の過誤に対して禍津日神は禍をもたらし、その禍が発生しないよう直毘神に祈るのだとしている。
 この両神は折口による説明また禊の段の記述から、二神一組として認識されたかと思われる。しかし上記の大殿祭祝詞に禍津日神は語られず、また「天の麻我都比と云ふ神」の名が見える御門祭祝詞に直毘神は語られない。後者には「咎過在らむをば、神直び大直びに見直し聞き直し坐して」という直毘神に由来する副詞的な表現はあるのだが、神名そのものは語られず、もし両神が対の存在に見なされていたとするなら信仰に変遷があったのかもしれない。ちなみに平安初期の『皇大神宮儀式帳』によれば、かつて内宮に「大奈保見神社」が祀られていたらしい。禍津日神を後世的にはマガツミと呼ぶこともあることからすれば、オホナホミとは大直毘神のことだろうか。しかしこの社は現存せず、他の文献にも見えない。
 直毘神に対する信仰は江戸時代に高まったことがある。本居宣長は畢生の大著『古事記伝』の総論とした題目を「直毘霊」(改稿に伴って「直霊」から解題)とし、これは漢心に染まった大和心を直毘神の働きによって直して貰いたいとする願いによるものである。なお、神道の霊魂観として知られる一霊四魂説の一霊は直毘神のこととされるが、この神が四魂を統括するというのは伝統的な思想ではなく、江戸時代に高まった直毘神信仰を背景とした新しい霊魂観である。

□ 菊理媛神-くくりひめのかみ
 伊奘諾尊と伊奘冉尊が対立している場面に登場するが、『日本書紀』の一書のひとつにおいてだけで、しかも何かを語ったらしいがその中身は記されていない。すなわち泉平坂にて泉守道者が伊奘諾尊に、一緒には戻らないという伊奘冉尊の言葉を伝え、続いて菊理媛神が現れて何かを言い、これを聞いた伊奘諾尊は褒めた、というのである。この箇所を引くと、「是の時に、菊理媛神、亦白す事有り。伊奘諾尊聞しめして善めたまふ。乃ち散去けぬ」とあり、次に伊奘諾尊は泉国の穢れを祓い、磐土命、大直日神、底土命、大綾津日神、赤土命、大地海原の諸神、が生まれる。
 この媛神の神格を以上の記事だけで理解するのは難しいとはいえ、手がかりのひとつはひとまず菊理という名称にある。キクリまたココロとも読まれる名を通説にしたがってククリとするなら、諾冉両尊の間を「くくった」とする理解が通説となっている。しかし、確かに伊奘諾尊は菊理媛神の言葉を褒めてはいるが、関係を取り持ったとまでは言えないのではなかろうか。もうひとつの通説、媛神との会話の直後に伊奘諾尊が禊をしていることとの関連から、水に潜(くく)るという意味に取る方が妥当ではないかと思われる。このことは折口信夫が「水の女」(昭和二年)に、「其言ふ事をよろしとして散去したとあるのは、禊ぎを教へたものと見るべきであらう」といい、また菊理媛神は禊の場面に本来は登場していたのかもしれないともいう。なお菊理媛神は白山の女神として知られているが、「亦白す事有り」の白と白山を結びつけることを含め後世的な理解および信仰である。
 今は曖昧なことしかここに書けないが、もうひとつ別の可能性も指摘しておきたい。この媛神が何かを言った神である、という点に注目するなら、枉津日神や直日神の項で述べたようにそれらの神もまた言葉との関連が強く、登場する場面も同じと言っていいほど近い箇所であることに謎を解く鍵が隠されているのではないか。媛神が登場するこの段の禊では、上記のように枉津日神が現れずに、その禍を直す筈の直日神が生まれている。大綾津日神が大マガツヒ神の別名としても、他に見えない菊理媛神の活動が記されるこの一書では、あたかも媛神に押し出される形で枉津日神が消えているように思えるのである。禍もしくは罰を与えるような要素は菊理媛神には示されていないため、枉津日神が姿を変えて菊理媛神になったとまでは言えないとしても、禊という行為と言葉を中心に、枉津日神、直日神、そして菊理媛神が何らかの関係性を有しているのかもしれない。

□ 蛭児-水蛭子 ひるこ
 伊耶那岐命と伊耶那美命との間に最初に生まれた子を『古事記』では水蛭子と表記する。すぐに葦船に乗せて流されてしまうが、理由は「吾が生める子良からず」とのみ語られ、具体的な理由はない。『日本書紀』では蛭児と書き、四段第一の一書ではほぼ記と同じ、第十の一書では淡路洲の次に生まれたことのみ、そして第五段の本文および第二の一書では日神と月神に続いて生まれるが、ここでは「已に三歳になるまで脚猶し立たず」(本文)と、流される理由らしきことが語られている。
 オホヒルメ(天照大神)と前後して生まれることから、ヒルコを「日る子」と見て太陽の男神とする理解もある。ただし記で水蛭子の次に生まれた淡島も子のうちに数えられず、紀の四段本文で最初に生まれた淡路島も不本意な出来とされていることからすれば、初めは良くないが修正を経て次第に発展していくという思想に重きを置いて理解すべきかもしれない。『古事記』では地上がまだ脂のように漂っていたとき、天つ神が伊耶那岐命と伊耶那美命にこの国を「修め理り固め成せ」と命じたため、両神は淤能碁呂島を作って降り立ち、夫婦となって子を生んでいる。この修理固成という言葉は単に整備を意味するだけでなく、世界は生成発展していくもの、または発展させるものとする世界観の反映ともいえる。
 流された蛭児も流されたままでは終わらず、中世になって復権した。エビス信仰と結びつき、福の神として崇められるようになったのである。エビスというのは本来、外部の異民族を意味するが、各方面に見られる外来神信仰のひとつとして漁民の間では、外からやって来る漂着物や鯨などを豊漁をもたらすエビス神として祀ることがあった。それが中世には流された蛭児がエビス神となって戻ってきたと信仰されるようになり、やがて商売繁盛や豊作の神としても広まっている。
 ちなみに、現在ではエビスという言葉は、夷・戎・蛭子・恵比須・恵比寿、などと様々な表記が見られる。しかし元来のエビスのエは「エ/え」であって「ヱ/ゑ」ではない。恵比寿などの「恵」は「ゑ」だから不正確な当て字となるが、それらの区別に無頓着となった近世に生まれた表記であるとともに、福神ゆえに縁起の良い字を用いる意識があってのことのようである。

□ 大宜都比売神-大気津比売神 おほげつひめのかみ
 オホゲツヒメという名の神は『古事記』に登場するが、『日本書紀』には見えない。しかし、だからといって活躍の場が少なく影が薄いのかというと、そうでもない。記には伊耶那岐命と伊耶那美命による国生みによって生まれた粟国(阿波国)の名を「大宜都比売」とし、また続いて行われた神生みにおいてもまた「大宜都比売神」が生まれている。さらに高天原を追放された須佐之男命が「大気津比売神」に食物を求め、須佐之男命の孫にあたる羽山戸神は「大気都比売神」を娶ったという。
 すなわち記では四つの場面にオホゲツヒメという女神が語られているわけだが、須佐之男命は大気津比売神を殺すことになるので、少なくとも二柱のオホゲツヒメは区別されるだろう。
 須佐之男命から殺されるというのは、この比売神が鼻と口と尻から食物を取り出して調理し献上しようとしたためである。その後、比売の死体の各部位に蚕や穀類が生じたといい、この展開からも明らかなように、大気津比売神は神名中の「ケ」が食物を意味する食物神である。
 そしてオホゲツヒメが各所で語られるのも、この女神が食物神だったからにほかならない。というのは食物の持つ重要性ゆえに、他にも多くの食物神が神話には登場するのである。『古事記』ではケと同じく食物の意味のウケやウカを持つ神に豊宇気毘売神や稲荷神として知られる宇迦之御魂神、稲を意味するトシを持つ大年神などがあり、『日本書紀』では同じく体の部位に蚕や五穀が生じたという稚産霊、記と同じ展開で月夜見尊に殺され穀類や牛馬を体に生じさせる保食神などがある。また伊勢神宮の外宮に祀られる豊受大神、広瀬大社に祀られる若宇加能売命など、枚挙にいとまがない。
 大気津比売神を含めて食物神に女神が目立つのは、やはり食物が生み出される働きと出産の働きの類似性からだろう。ゆえに食物神は大地に属する神であり、紀で保食神が殺された話は、「地上にいる保食神の様子を見てきなさい」と天照大神が月夜見尊に命じたことを発端としている。大気津比売神の話も、須佐之男命を追放した高天原の八百万の神々が食物を求めた、と解釈している研究者もいるが、追放され地上に降りてきた須佐之男命による要求と見なすのが妥当と思われる。

□ 豊受大神-登由宇気神 とようけおほかみ/とゆうけのかみ
 伊勢神宮の外宮、すなわち豊受大神宮に主祭神として祀られている。ウケの語が食物を意味する食物神で、内宮の天照大神に食事を奉る神として祀られたというが、その鎮座の経緯には不明な点も多い。『古事記』では邇邇芸命の降臨に随行した神として唐突に「登由宇気神」の名が記され、「此は、外宮の度相に坐す神ぞ」と説明される。しかしこの一文にも謎が多く、祭神に関わる点のみ挙げると、外宮祭神をトユウケと呼ぶ例は他に見られない。宇の文字が混入したもので本来は「登由気神」トユケ神だったか、あるいは由が用の誤写で本来は「登用宇気神」トヨウケ神だったか、などと指摘されている。
 また、登由宇気神の名そのものが後からの書き入れでないとするなら、『古事記』では伊耶那美命の尿に成った和久産巣日神の子の豊宇気毘売神と同一神ではないかとも考えられるが、確かなことは分からない。記の成立からおよそ九十年後にまとめられた外宮の公式な文献『止由気宮儀式帳』によれば、「丹波国比治の真奈井に坐す我が御饌都神、等由気大神を我が許に」と天照大神が求めたことを外宮鎮座の由来としている。この「丹波国比治の真奈井」といえば「丹後国風土記」逸文に、比治山の頂にある真奈井という泉に水浴のため降りてきた八人の天女のうちの一人が天に戻れなくなり、後に豊宇賀能売命として祀られた、という話があって関連を思わせる。祀られた場所は竹野郡船木里奈具村の奈具神社だが、天女の水浴びと語られていても、山の頂へ降りてきたというのはまさに神の降臨を意味する。話の展開はともかくとして、『古事記』の豊宇気毘売神ではなく風土記逸文の豊宇賀能売命が、外宮祭神にまつわる伝承の直接の源流だろう。『日本書紀』には同定される神は見当たらない。
 ただし伊勢神道では、比治の真奈井の天女を外宮祭神の源流とは見なかった。『止由気宮儀式帳』に上記のような由来が語られているからにはまったく無関係とはしていないが、『倭姫命世記』では改変を加え、八乙女が斎き祀る御饌都神豊受大神を我が許に、と天照大神が所望したことになっている。また外宮の酒殿神を豊宇賀能売命とし、その説明に風土記逸文の一節を引いている。つまり豊宇賀能売命は豊受大神ではなく、豊受大神に仕えている神に過ぎないという位置づけである。風土記逸文の記述によれば確かに、後に社に祀られたとはいえ人間に騙されて帰還できず、嘆き悲しみながら彷徨った哀れな天女であるから、この天女が直接に豊受大神だと理解するには無理がある。だが、豊受大神の神格を遙か高みに押し上げようとする伊勢神道の立場が両者を峻別させたということも否定できないだろう。

 


□ 栲幡千千姫-萬幡豊秋津師比売命 たくはたちぢひめ/よろづはたとよあきづしひめのみこと
 名前や系譜に異伝が多く、『古事記』では高木神(高御産巣日神)の子で萬幡豊秋津師比売命、『日本書紀』本文では同じく高皇産霊尊の子で名は栲幡千千姫、また一書のひとつで記に類似した萬幡豊秋津媛命、別の一書で萬幡姫、別の一書で栲幡千千姫萬幡姫命、あるいは高皇産霊尊の子の火之戸幡姫の子で千千姫命、別の一書で天萬栲幡千幡姫、あるいは高皇産霊尊の子の萬幡姫の子で玉依姫命。
 いずれも瓊瓊杵尊の母として名が挙げられるため同一の女神と思われるが、具体的な活動はまったく伝えられない。しかし伊勢神宮では意外なところにこの名を見ることができる。内宮の御正殿において、天照大神とともに祀られているのである。主祭神とともに同一の御殿内に祀られる神がある場合、これを相殿神といい、内宮御正殿では主祭神の天照大神の他に天手力男命と栲幡千千姫の二柱が相殿神として祀られている。平安初期に成った内宮の公式な文献『皇太神宮儀式帳』によれば、御正殿についての「同殿坐神二柱」という記述に分注があり、「左方に坐すを天手力男神と称す。霊の御形弓に坐す。右方に坐すを万幡豊秋津姫命と称すなり。此皇孫之母。霊の御形剣に坐す」という。
 この女神が天照大神とともに祀られている理由は定かではないが、雄略天皇の娘で斎宮となった稚足姫皇女の別名が栲幡姫皇女であることなどから関連を指摘する説も見られる。ただし上述のように『皇太神宮儀式帳』では女神の名を紀本文の栲幡千千姫ではなく、一書の万幡豊秋津姫命としていることはどのように理解すべきだろうか。なお『日本書紀』によれば、斎宮の栲幡姫皇女は在任中に妊娠を疑われ、「神鏡」を手にして出奔したのちこれを埋め、縊死している。捜索の者は蛇のような虹が出ているところを掘ると神鏡を発見し、さらに皇女の遺体のお腹を裂くと「物有りて水の如し。水の中に石有り」という状況で、疑いは讒言だったと判明したという。何とも不可思議な記事で、このような神秘的な事柄から神格化が生じたと思えなくもないが、やはり不明としか言いようはない。
 また栲幡千千姫が高皇産霊尊の子であることも、相殿神とされた理由かと指摘される。『日本書紀』において高皇産霊尊は天照大神より主導的に描かれ、皇室の本来の祖神ともいわれることから、その信仰が反映されたのではないかという。しかし確かな根拠には乏しい。


 

□ 大国主神-大己貴神 おほくにぬしのかみ/おほあなむちのかみ
 日本神話に登場する神々の中でとりわけ知られていながら、案外と神格の把握が困難な神々のうちの一柱ではなかろうか。『古事記』では大国主神の他に大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神と計五種の名を持つとされ、『日本書紀』では本文で大己貴神とあるが一書のひとつでは大国主神、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神と七種の名が挙げられる。このように複数の名を持っているのは、さまざまな信仰が集約された結果だと考えられる。しかしその結果を大国主神信仰の起点と見なしたとしても、大神神社祭神の大物主神や大和神社祭神の倭大国魂神と大国主神を同じ神として矛盾ないかといえばそうでもない。例えば大物主神は上記と別の一書に大己貴神とは異なる神のように描かれており、決して神格の集約が固まっているわけではなく、粗さも同時に目に付く(大物主神と倭大国魂神については別項にて取り上げる)。
 その意味でより単純に理解されるのは、『万葉集』に見られる大国主神の姿である。姿とはいっても具体的な様子はあまり語られないが、「大汝少御神の作らしし妹背の山」〔1247〕、「八千桙の神の御代より」〔2002〕、「大汝少彦名の神代より」〔4106〕などとあって、神代の世界を代表する神と見なされており、またおそらく神代においてこの国土を生成した神と信仰されている。
 国土の生成といえば、地上の修理固成を命じられた伊耶那岐命と伊耶那美命による国生みや神生みがすぐに思い浮かぶ。しかしそれで世界は完成するのではなく、次の段階としてその世界を整備したのが「国を作りたまひき」と『古事記』に明記される大国主神である。岐美両命が生成した国土を大国主神が受け継いで展開させ、さらにその国土を邇邇芸命が譲り受けて発展させるという、何段階もの国作りが語られているわけで、『万葉集』からは大国主神による国作りが強く意識されていたと知られる。記に詳しく描かれた、兄弟神たちから虐げられる弱い立場から地上の統率神にまで成長する過程も、修理固成や生成発展という世界観と重ね合わせられているように思える。つまり大いなる国の主という名が示す通りに地上世界を体現する神である。その意味では一様ではない地上世界を体現する神に複数の信仰が集約されるのも、何か政治的な外的要因によるものではなく、必然なのかもしれない。
 一方で『日本書紀』においては編纂意図に影響されてか、記ほどに大己貴神は語られず、諾冉両尊や瓊瓊杵尊による国作りを強調させているようである。しかし上記の一書に国作大己貴命という国土生成の神格を反映させた別名が挙げられ、また同一書では少彦名命とともに「天下を経営(つく)る」といい、決して国作りの業績が無視されているわけではない。なお、この一書には大己貴神の業績として更に、人々と家畜の治療法や鳥獣と昆虫による被害を除く方法を定め、それによって人々はみな今に至るまで恩恵を受けていると記されている。縁結びの神徳ばかりが宣伝され周知されているが、少なくとも記紀などの古い文献によるなら、国作りを主に、人々の生活の安寧をつかさどる神である。

 

□ 事代主神-八重言代主神 ことしろぬしのかみ/やへことしろぬしのかみ
 大国主神の子で、国譲りの諾否を父の代わりに答えるという働きなどから、神意の伝達、すなわち託宣に関わる神かと思われる。『古事記』では大国主神の言葉に「我が子、八重言代主神、是れ白すべし」とあり、事代主神の「事」は明らかに「言」に通じることが知られ、『日本書紀』においても例えば神武天皇元年に、事代主神による託宣があったという記事が見える。
 ただ、この神は国譲りを承諾し、託宣に関わるらしいというだけではない謎も秘めている。紀本文によれば天つ神の使者がやって来たとき、釣りもしくは鳥遊(狩猟または鵜飼いの類か)のため船に乗っていたが、承諾の意を示したのち、「海中に、八重蒼柴籬を造りて、船のへを踏みて避りぬ」という。海中に蒼柴籬を作って去ったというのは、自ら船を傾けて海中へと沈み、そこに作った柴垣に宿ったことを意味し、これが神ではなく人の話なら入水して自死を選んだということになる。
 この場面は記においてもほぼ同様だが、やや理解しにくい。すなわち「其の船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りき」とあり、天逆手を打つことで船を柴垣に変えて隠れた、と一応は理解される。しかし天逆手というものが船を柴垣に変える呪術なのか、別の意味があるのか判然としない。というのは、平安初期頃成立の『伊勢物語』に「天の逆手をうちてなむのろひ居るなる」(九十六段)と、天逆手を「呪ひ」の所作としており、この理解が『古事記』の時代でも同じなら、事代主神は単に船を柴垣に変えたのではなく、話の流れからすれば降伏を迫る天つ神側に対して呪ったとも理解される。通常に手を打つ行為は祝福を意味するため、その「逆」手ならば、祝福とは反対の意味に取れる。
 とはいえ、使者に対する大国主神や事代主神の対応そのものに、当初の建御名方神のようなあからさま
な敵対行為は見られず、「恐し。此の国は、天つ神の御子に立奉らむ」という言葉とともに呪いをかけたとは思えない。もし呪いなら、それを示す記述がなされる筈で、ないということは、『伊勢物語』の時代までに天逆手の意味が変化したのではなかろうか。状況からすれば、通常は指先を天に向けての拍手ではなく、沈み行く船すなわち下に向けて、天とは逆の方向に向けて拍手したことを天逆手と表現したのではないか、という理解を試みに記しておく(先行解釈の有無について今は差し措く)。
 その後の事代主神は皇室にとってとりわけ重要な神となる。紀によれば神武天皇皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命および綏靖天皇皇后の五十鈴依媛命は、ともに事代主神の娘で、安寧天皇皇后の渟名底仲媛命は曾孫とされる。また、古くは神祇官に設けられた八神殿に天皇守護の八柱の神々が祀られ、そのうちの一柱は事代主神である。記には隠れ去ることを承諾した大国主神が建御雷神に対し、「僕が子等、百八十神は、即ち八重事代主神、神の御尾前と為りて仕へ奉らば、違ふ神は非じ」と、事代主神が統率してお仕えするなら反抗する子はいない筈だといい、天つ神に帰順した国つ神の筆頭という立場に事代主神がいて、このことからも呪いをかけたとする解釈は成立しないだろう。ただし、呪いを発動させないために事代主神を取り込み丁重に祀ったという理解は、必ずしも払拭されるわけではないかもしれない。

□迦毛大御神-阿遅鋤高日子根神 かものおほみかみ/あぢすきたかひこねのかみ
 大御神という号は『古事記』において他に天照大御神と伊邪那岐大御神にしか用いられない、最高位の号である。天照大御神は最初から大御神だが、伊邪那岐大御神はその活動に従って、必ずしも規則的ではないとはいえ、神、命、大神、大御神と上昇していることからしても、迦毛大御神という神名がいかに特異であるか知られる。ただ、この神名は「阿遅鋤高日子根神は、今、迦毛大御神と謂ふぞ」と記されているように、あくまでも「今」のことであって、神話上の活動によって大御神と称えられているわけではなさそうだ。記編纂の当時にこの神が格別に崇敬されていたことを示しているようだが、『日本書紀』では次に述べるように、味耜高彦根神の表記で『古事記』と同じ話が伝えられるに過ぎない。
 系譜としては記によると、大国主神と宗像の多紀理毘売命との子とされる。紀の本文および一書では大国主神側の国津神らしく描かれるが詳しくは記されない。記紀ともに見える活動は、親しくしていた天稚彦が亡くなって葬儀に参列したとき、風貌が似ているために見間違えられたことに怒り、喪屋を斬り倒したという話だけである。だが「出雲国造神賀詞」では、大穴持命が子の「阿遅須伎髙孫根命の御魂」を葛木の鴨の神奈備に鎮めて朝廷の近き守神としたことが語られる。「葛木の鴨の神奈備」というのは『延喜式』に高鴨阿治須岐詫彦根命神社と記された、葛城山に鎮座する現在の高鴨神社と思われ、この神社は賀茂神社の発祥地ともされるが伝承や系譜に各種あって明確ではない。たとえば『令義解』によると天津神の代表例の中に「山城鴨」、国津神の中に「葛木鴨」が挙げられ、山城鴨というのは京都の上賀茂神社や下鴨神社のことであり、京都と葛城のカモは別系統とされる。しかし『古事記』編纂当時に大御神と称えられるのは山城賀茂の祭神とする方が相応しいようでもあり、どのように理解するべきか判断は難しい。迦毛大御神という名称はともかくとするなら、アヂスキタカヒコネという神が記紀や神賀詞において国津神系統であることだけは明確といえよう。
 気になるのは、上述の記紀における話である。天津神の天稚彦と見間違えられるほど風貌が似ていたということは何を意味しているのだろうか。葛城の地にはもうひとつ、風貌が似ていることに関するよく知られた話が紀紀に語られている。雄略天皇が葛城で狩りをしていたとき、山中で天皇と瓜二つの人物と出会い、その正体は一言主神だったという話である。葛城における勢力と朝廷との関係を示しているともいわれるが、もしかしたら天津神系と国津神系のカモ氏を反映しているのかもしれない。

 

□ 武甕槌神-建御雷神 たけみかづちのかみ
 天孫降臨に先立って地上に降り立ち、大国主神に国譲りを認めさせた神として知られる。『古事記』では建御雷之男神ともいい、『日本書紀』では窮地の神武天皇に剣を下す場面で武甕雷神とも表記されている。紀の一書では伊奘冉尊の神退りを引き起こした火神軻遇突智を伊奘諾尊が斬ったとき、その剣の刃から滴った血が五百箇磐石となり、これが経津主神の祖で、また剣の鍔から滴った血が化した神を武甕槌神の祖という。記に経津主神は登場しないが、同様に斬られた火之迦具土神の血から成った建御雷神の別名を建布都神または豊布都神としている。
 記紀ともに大国主神の前には、切っ先を天に向けて立つ剣の上に足を組んで現れており、まさに剣に降臨した様相で、剣の武神であることを示している。出生に関わる背景には剣だけでなく、「火神を斬った血」も印象的だが、火は剣を鍛えるために必須であり、血はもちろん火に類似するばかりでなく剣がその機能を働かせた場合に伴われるものである。また神名に雷が見えるのは形状の上で雷光に剣との類似性があるからで、なおかつ落雷による火の発生も意識されているのかもしれない。別名をフツの神とすることについては、フツがものを断ち斬る音を表すと説明されやすいが、雷光との関連から見れば輝きを意味するとも思われる。紀では八咫鏡の別名を真経津鏡といい、光を反射する鏡のフツは輝きのことであり、雷光が意識される剣に同様の表現が用いられても無理はないだろう。
 やや奇妙に思えるのは国譲りにどの神を遣わすか協議する場面で、記では「天安河の河上の天の石屋に坐す名は伊都之尾羽張神、(略)の子、建御雷之男神」、紀でも同じく「天石窟に住む神、稜威雄走神の子(略)の子武甕槌神」と説明されていることである。武甕槌神自身の所在については不明確だが、その祖が天石窟に住んでいること、あるいは武甕槌神も同じ場所に住んでいるかもしれないことは、いったい何を意味しているのだろうか。しかも記によれば、伊都之尾羽張神は河の水を塞き止めて道を塞いでいるため、他の神は住処に近づきがたいのだという。
 伊都之尾羽張神は天之尾羽張ともいい、迦具土神を斬った剣の名ともされる。日本古典文学大系の紀頭注では、記のオハハリではなく紀のオハシリを正しい名と考えているが、剣の名称としては蛇の意味を持つハハの語がふさわしい。水を湛えた石窟という環境も蛇の住処を思わせる。迦具土神が斬られた際に剣にまつわる神ばかりでなく、渓流の神の闇淤加美神や多くの山津見神が現れていることからも、建御雷神の剣には蛇の姿も重ね合わされているように思われる。

□ 建御名方神 たけみなかたのかみ
 大国主神の子で国譲りの際に建御雷之男神と争い、諏訪まで追い詰められて降伏したと『古事記』に伝えられるが、『日本書紀』や『出雲国風土記』には神名すら挙げられず、他に古い文献では記紀が多く利用されている『先代旧事本紀』にしか見えない。記でも母神の名はなく、唐突に現れて上記の話にしか語られないことから、記の神話体系に無理に組み込まれた感が強い。
 諏訪の地に追われた神という点では、「伊勢国風土記」逸文に類似の話がある。神武天皇の部下の天日別命が伊勢津彦に「汝の国を天孫に献らむや」と迫り、伊勢津彦は最初これを拒否するが、殺されそうになって降伏し、「吾が国は悉に天孫に献らむ。吾は敢へて居らじ」と退去を決意する。そしてこの「伊勢津彦の神は、近く信濃の国に住ましむ」というから、国譲りの構図とほぼ同じである。ただし伊勢津彦が諏訪に移り住んだという一文は後世の書き込みと思われるため、少なくとも諏訪との接点は記の建御名方神の話を元にしたかと思われる。地元を天津神に追われる展開そのものについては、建御名方神と伊勢津彦の話のどちらが本来か、あるいはまた別の原典があるのかどうか不明な点は多い。
 しかし伊勢津彦が伊勢を離れる際、大風を起こして波に乗り東に向かったという記述もあって、ここに諏訪との接点が見られなくもない。建御名方神といえば武神としての信仰が知られているが、風の神という側面もあり、紀によれば持統天皇の五年に「使者を遣して、龍田風神、信濃の須波、水内等の神を祭らしむ」と、明確ではないがおそらく諏訪の神も風の神として祀られている。なお上記の「信濃の須波」が紀における諏訪の神に関する唯一の記事で、前述のように建御名方神という具体的な神名が記載されることはない。また「水内」の神というのは『延喜式』神名帳で信濃国水内郡の健御名方富命彦神別神社だと思われ、この神名帳で「信濃の須波」は南方刀美神社と表記される。健御名方富命彦神別神と南方刀美神の関係は同一神か親子か不明だが、諏訪の神は『文徳天皇実録』等で建御名方富命神ともいう。
 武神や風神のほかに、水の神という面も考えられる。神名のミナカタが水潟に由来するなら、諏訪湖の水神としての神格があると思われるからだ。こうしてみると、風の神や水の神といった神格は土地固有の風土に育まれたものであろうから、出雲国からやって来た神という位置づけはあくまでも『古事記』の神話がまとめられる際に作り出され、これを受け継いだ『先代旧事本紀』によって定着したと見るべきだろうか。諏訪の地における伝承では、外来神の建御名方神が土着神の洩矢神を破って従えたというが、この伝承を伝える『諏方大明神画詞』は中世の縁起である。

 

□ 倭大国魂神-日本大国魂神-大倭大神 やまとおほくにたまのかみ/おほやまとのおほかみ
 崇神天皇紀に、それまで天皇の住む大殿に祀られていた天照大神を外部に遷すことになったとあり、伊勢神宮創建の発端の記事として知られているが、その際に天照大神とともに大殿から遷座されたのが倭大国魂神である。初めは渟名城入姫命、続いて夢告により市磯長尾市がこの神を祀ったいう。また垂仁天皇紀二十五年には異伝として「倭大神」による託宣が記され、この託宣を元に占ったところ、最初に渟名城稚姫命、続いて長尾市宿禰が「大倭大神」を穴磯邑の大市の長岡岬に祀ったと伝える。
 大己貴神の別名のひとつに大国玉神があり(紀の一書)、とりあえずは大己貴神と倭大国魂神を同一神と見ることは可能だが、各国の国魂神と日本国全体の国魂神との区別や結びつきの経緯までは明確にし得ない。記によれば大年神の子に大国御魂神という神がいて、この神にもまた紀の大国玉神や倭大国魂神と同一神らしきものを思わせる。国譲りが成功したとはいえ完全に天津神側が取って代わって地上を統治したのではなく、上記のように天上界を統べる天照大神と地上界の国魂神はともに祀られていたのであり、その地上界を代表する諸々の国魂神がまた大己貴神に収斂されて同一視された、つまり習合したということなのだろう。大己貴神に限らず、もとより神の実体を把握することは不可能であるため、明確な系統上の違いがなければ、神名の類似性から同一と見なしても大差ないともいえる。
 この神に関して興味深いのは、大倭大神の名の下による上記の託宣である。一部を直訳して引いてみるなら、「世の初めのときに約束をして、天照大神は天上界を治め、天皇はこの国の神々を治めるだろう。そして私は国魂を治めよう、と言った」という。文言中の「大地官(おほつちつかさ)」を国魂と訳すのが妥当なのか今は措くとして、世の初めの約束と理解される「太初の時に期(ちぎ)りて曰はく」の「期り」の主語は明確でなく、伊奘諾尊と伊奘冉尊、つまり天照大神が誕生した際に天上界の統治を委ねた指示のことだとも解釈されているが、天照大神と大倭大神が交わした約束と捉えてもいいかと思われる。神話の流れからすれば辻褄が合わないとはいえ、合わないから正伝ではなく異伝の扱いなのだともいえる。そのように理解するなら、「神道五部書」の例えば『倭姫命記』に、「天地開闢の初め、神宝日出でます時、御饌都神と大日霊貴と予め幽れたる契りを結び、永に天下を治めむと言寿ぎ宣りたまふ」、すなわち豊受大神と天照大神が天地開闢の初めの時に天下を治める幽契を交わしていた、とする豊受大神の位置づけを高めるための記述との類似性が認められよう。五部書の各所に記される豊受大神の幽契という設定はこの天照大神と大倭大神の期りを背景としているのかもしれない。

□ 笥飯大神-気比大神 けひのおほかみ

 福井県の敦賀港近くに鎮座する気比神宮の主祭神。記紀ともに大神の号により称され、『古事記』では伊奢沙和気大神之命・御食津大神・気比大神、『日本書紀』では笥飯大神・去来紗別神との神名および表記が見られる。記の御食津大神という名からも明らかなように、ケヒのケが食物を意味する食物神らしいが、即位前の応神天皇と名前を交換したという話によって知られる。
 しかし名前の交換とはいっても単純ではなく、いくつもの解釈が可能となるような不明瞭な話しか残されていない。時は神功皇后が新羅征討を終えて帰朝し太子を産んだのちのこと、『古事記』によれば建内宿禰が太子に禊をさせるため敦賀に滞在中、夢に「伊奢沙和気大神之命」が現れ、自分と太子の名を替えたいと告げた。承諾すると、交換のお礼を献上するので浜に来るように、という。行くとイルカが一面に集まっており、これを見た太子は「我に御食の魚給へり」と言った、という話である。
 太子の禊というのは、敵対勢力の目を欺くため太子が死んだと偽って喪船に乗せており、その穢れを祓う目的だと思われる。また気比大神が名前の交換を申し出たことや、建内宿禰が承諾したのも、おそらくは死を装った太子の再生を象徴する行為になるからだろう。しかし理解されるのはそこまでで、名前の交換があったのなら何が何に変わったのか、その点は曖昧なのである。『古事記』では太子の名を大鞆和気命または品陀和気命と記すのだが、この名と夢に現れた伊奢沙和気大神之命という名との関係はほとんどわからない。ただ大鞆和気命の場合は、産まれてすぐに太子の腕に「鞆」のような盛り上がりがあったために名付けられたと説明されているので、これは本来の名としてほぼ確定的だろう。しかしだからといって気比大神が大鞆和気大神と呼ばれるようになったとは伝えられていない。
 名前の謎については『日本書紀』の編者も頭を悩ませている。本文には「角鹿の笥飯大神を拝みまつらしむ」としかないが、応神天皇即位前紀に「一に云はく」として名前を替えた伝承に触れ、交換の結果として大神を去来紗別神、太子を誉田別尊と名付けたとするも、ならば大神は元が誉田別神で太子は去来紗別尊だったことになるがそのような記録はないから未詳である、という。
 伝承に多少の修正を施すなら、イルカを目にした太子が「我に御食の魚給へり」と語ったことが謎を解く鍵になるかと思われる。イルカは大神の言にあるような交換のお礼ではなく、交換された名(魚)そのものと見れば、太子は魚(イルカは魚類ではないが『古事記』では「入鹿魚」と書く)を得て、大神は太子の名を貰ったのである。ただ大神は食物神なのでその神格から気比大神と呼ばれることに変わりなく、貰った太子の名が何であったのかは知られることはない。死の穢れを祓うことが目的であるため、交換が重要であって名前そのものにはあまり意味はないのだろう。

 

□ 倭姫命-倭比売命 やまとひめのみこと

 第十一代垂仁天皇の娘で、日本武尊の叔母にあたる。『古事記』では倭比売命と表記する。
 伊勢神宮の創建に大きな働きをしたとされ、記では「伊勢の大神の宮を拝き祭りたまひき」と注記されるのみで、後は倭建命が熊曾建を討伐する際に倭比売命の服を着て女装したこと、また倭建命が神宮を参拝した際に草那芸剣と御袋を授けたことが記されている。
 これが『日本書紀』になると神宮創建の経緯に詳しい。第十代崇神天皇のとき天皇のもとで祀られていた天照大神を別の場所に遷すことになり、垂仁天皇の時に倭姫命が各地をめぐり、大和国から近江さらに美濃を経てようやく伊勢国に入ったとき、天照大神の託宣によって鎮座が決定したという。
 ただし紀では倭姫命が日本武尊に草薙剣を授けたという記述は見られるが、御袋はなく、また尊が熊襲国の川上梟帥を討つ際に女装していても倭姫命の服を用いたという記述はない。伊勢神宮の神威が日本武尊を守護しているという関係性は同じとはいえ、『古事記』では女性の霊威が男性の活動を守っているという関係性、もしくは物語性がより強く意識されているかと思われる。
 倭姫命と倭建命という叔母と甥が祭政の両輪と位置づけられていることは明らかだろうが、系譜を眺めると、同時代に名前の上で「倭」を担った男女がさらに一組あることがわかる。『日本書紀』によれば崇神天皇の子に、千千衝倭姫命と倭彦命という姉弟がいるのである。チチツクを多くの神霊が憑くと解するなら、倭姫命と同様に巫女としての役割を果たしていたのかもしれない。『古事記』でも崇神天皇の子に千千都久和比売命と倭比子命とあるが、都久和の文字の下に「此の三字は音を以ゐよ」と注記され、チチツクワヒメと読むべきことが指定されている。しかし宣長が『古事記伝』に、本来は都久の二文字のみ音で読むという注記だったものを、書写の過程で元の倭の字を和に誤ったことに連動して注記も書き替えられたのではないかと指摘しているように、やはり紀における名称や弟の名からすれば、チチツクワではなくチチツクヤマトヒメが正しいかと推察される。

□ 日本武尊-倭建命 やまとたけるのみこと

 第十二代景行天皇の子で、『古事記』では小碓命または倭男具那命からのちに倭建命、『日本書紀』では小碓尊または日本童男からのちに日本武尊と表記される。
 叔母の倭姫命が伊勢神宮の初代の斎宮として神宮祭祀の基礎を築いたとされているように、同じヤマトの名を戴いた日本武尊は皇室による統治の基礎固めに各地を平定した。どちらも目的のために巡行し、また倭姫命が尊に草薙剣を授けたという点にも祭政一致の統治という理念が読み取れる。
 記紀ともに獅子奮迅の働きをする英雄として描かれているが、紀では父天皇から「是の天下は汝の天下なり。是の位は汝の位なり」とまで称えられることに対し、記ではその「建く荒き情」が父天皇から恐れられ、命もまたその思いを感じとり倭姫命に泣いて不満をこぼす様が語られるという違いが見られる。この記における描かれ方について、亡き母のもとに行きたいと泣き喚くため伊耶那岐命から追放される須佐之男命と重ね合わされていることは明らかだろう。
 父が倭建命を恐れたというのは、食事に姿を見せない兄の大碓命に教え諭すよう命じたところ、命は兄の手足をもいで薦に包んで捨てたからで、記では英雄という点に加え、この世の価値にとらわれない人間離れした神性が強調されているのだと思われる。
 このことは、美夜受比売(宮簀媛)との話にも幾分かは見出される。遠征の途上、尾張国で比売の許にいたとき裾に月経の血が付いており、気づいた命は「共寝したいのに裾に月が出ているとは」と歌を詠むも結局は「御合」したという。なお、この話から、かつて月経はあまり不浄とは見なされなかったのではないかという指摘もあるが、兄の手足をもいで捨てるといった異常性をもって『古事記』の倭建命は語られることからすれば、根拠とはならない。ちなみにその後の命は「草那芸剣」を比売の家に置いたままで伊服岐能山に向かうと、山の神に惑わされてたちまち衰弱し、やがて能煩野で亡くなってしまう。神剣を手放したことを原因とする理解が一般的だろうが、山の神の力に圧倒されてしまうのは、生理中の比売との共寝があったことにも原因があるのかもしれない。

 亡くなる前、山の神によって衰弱させられた命は、尾津の岬にある一本松のところで、かつてそこに置き忘れていたという刀を見つけている。刀剣を手放した話がふたつ重なっている不自然さ、ふたつの刀剣の話が意味するものについては、別項にて改めてまとめることにする。 

□「稲荷神」

□「八幡神」


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□天照大神 天照大神荒魂 □枉津日神 □瀬織津比咩神 □直日神 □菊理媛神 □蛭児 □大気津比売神 □豊受大神 □栲幡千千姫 大国主神 事代主神 迦毛大御神 □武甕槌神 □建御名方神 □大物主神 □倭大国魂神 □気比大神 □倭姫命 □日本武尊 □稲荷神 □八幡神 など随時追加予定〈H30.5.18 更新〉

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