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●解説のページ【神器篇】

□ 三種神器の基礎知識〈H30.4.19更新/R01.5.8付記〉

-所在-
-神話-
 神器の作製と出現と降臨
 神器の移動
-歴史-
 皇居の神器と罹災史
 伊勢と熱田の神器
 現代の神器

○-所在-

 昭和六十四年、昭和天皇が崩御されて僅か数時間後、宮中正殿にて「剣璽等承継の儀」が行われた。これは皇室に伝えられている三種の神器のうち、剣と曲玉を新天皇が受け継ぐことを中心とした儀式である。
 もちろんこのときはまだ昭和天皇の葬儀も、新天皇の即位礼もなされてはいない。それらに先立っていち早く、継承者不在の空白期間をできるだけなくすように、慌ただしい中を速やかに神器は継承されている。すなわち皇位とともにあるのが神器であり、それほどの重要な継承の品なのである。
 この三種の神器とは、それぞれの名称を「八咫鏡」「草薙剣」「八坂瓊曲玉」という。しかし、この三つの神器が皇室に伝わって代々の天皇が継承しているのかというと、この表現はあまり正確ではない。というのは、三種の神器というのは数の上で三つの品というわけではないからだ。八咫鏡と草薙剣の二種については本体と分身が存在しているのである(以下多くの場合、八咫鏡を神鏡、草薙剣を神剣、曲玉を神璽と表記する)。
 すなわち、神鏡の本体・神鏡の分身、神剣の本体・神剣の分身、神璽の本体、といった五種があり、このうち神鏡の本体は伊勢神宮の内宮にて天照大神の御神体として祀られ、神剣の本体は熱田神宮にて祀られている。そして残りの神鏡と神剣の分身および神璽の本体が皇居にて天皇とともにあって、これらが代替わりに際して継承されているのである。
 ただし神鏡の分身が祀られている皇居内の賢所には、神座がふたつある。また皇居内の「剣璽の間」に奉安されている神剣と神璽のうち、神剣は鎌倉時代に代替わりした二代目の神剣である。こうしてみると、現物を確認することはできないので推測を交えるしかないが、歴史上には少なくとも七体の神器が存在したことになる。それらの神器にはどのような由来があり、なぜ三種以上の神器が存在し、またどのように継承されてきたのかについて、以下もう少し詳しく見ていくことにしよう。

 

 伊勢神宮の内宮[八咫鏡の本体]・皇居賢所[八咫鏡の分身]

 熱田神宮の本殿[草薙剣の本体]・皇居剣璽の間[草薙剣の分身]

                ・皇居剣璽の間[八坂瓊曲玉の本体]

●【付記-令和元年5月8日】● 追加記事の作成がいつになるか未定なので、よく目にする不適切と思われる表記についてあらかじめ簡単に指摘しておく。神器の名称を記す場合、新聞や雑誌などにおいて「八咫鏡・草薙剣・八坂瓊勾玉」と書かれていることが多いが、「八坂瓊勾玉」という表記は不適切であろう。八咫鏡と草薙剣は通用字体に変更されているが基本的に『日本書紀』の表記であることに対し、八坂瓊勾玉の場合は神器の出典の『古事記』にも『日本書紀』にも使用されていない表記である。『日本書紀』で神器の玉は「八坂瓊曲玉」(勾ではなく曲)であり、狢の体内から「八尺瓊勾玉」が出たという記事は垂仁天皇紀にあるが神器の玉のことではない。一般的には『日本書紀』の表記で揃えるのが適切だろう。

○-神話-

 現代においても天皇が継承し続けている「三種の神器」は、その起源を神話の世界に置いている。もちろん神話はあくまでも神話であって、歴史上の現実ではない。しかし完全に空想の世界かというとそうとも限らず、両者の区別を判然とさせることは難しい。合理的に理解するなら、ある時期に、現実に存在している神器と神話とが結びつけられたということになるのだろうが、結びつけられる神話にも、神話としての意味と価値が存在する。神話の意味や価値は、決して現実世界から離れて存在しているわけではない。
 この項では、まずは神器の神話的な由来について若干の見解を交えつつ概観する。

-神話- 神器の作製と出現と降臨
 神話の上で最初に作られたのは神鏡と神璽である。素戔嗚尊の狼藉により天石窟に籠もった天照大神を呼び戻すために祭祀が営まれた、というよく知られた話の中で、『古事記』によれば伊斯許理度売命が「八尺鏡」を、玉祖命が「八尺の勾珠の五百津の御須麻流の珠」(表示できない字は置き換えている)を作って榊に取り掛けた。そして楽しげに行われている祭に不審を抱いた天照大神に対し、あなた様より尊い神がいらっしゃいますと少し開けられた石窟戸に鏡を差し入れ、よく見ようと身を乗り出した天照大神を外に引き出した、と続いている。
 つまりこの場合の鏡は榊に掛けられた単なる装飾品ではなく、天照大神を誘い出す目的で作られたようで、明記されてはいないが、天照大神を鏡に映すことによって尊い神の姿のように錯覚させようとしたのだろう。このことは『日本書紀』では一書のひとつに、「彼の神の象を図し造りて、招祷き奉らむ」と天照大神をかたどったものを作って誘い出す意図が明記されている。ただしこの一書において作られたのは「日前神」となっており、現在の和歌山県に鎮座する日前神宮の御神体を指している。『古語拾遺』によれば最初に鋳造された鏡は不満足な出来だったので作り直したといい、最初の鏡が日前神宮に祀られ、次に作られた鏡が天照大神を誘い出し、のちに伊勢神宮に祀られることになるという。いずれにしても神鏡は天照大神の姿に似せて作られ、その姿を宿した特別な鏡だと位置づけられることになるわけである。なお、神璽についてはとくに伝承は語られることがない。
 高天原で行われたとされる上記の祭祀において神鏡と神璽は作られた。しかしこの場面に神剣は登場しない。草薙剣という神剣が出現するのは地上の世界においてである。これも人を喰らう八岐大蛇を素戔嗚尊が退治するというよく知られた話で、尊が大蛇の尾を斬ったとき、その中から神剣が出現したとされる。
 剣が大蛇の尾から出て来たというのは、太陽神である天照大神を象ったものとして鏡が作られたように、やはり形状の類似性が背景にあると思われる。とはいっても、なぜ人を呑む悪しき大蛇の体内から出現した剣が神器としての神聖な剣とされるのだろうか。その理由はふたつ考えられる。ひとつは、古代日本人は尋常ならざる存在を神と見なし、そこに倫理的な善悪による判断は加えないからである。圧倒的な力を持つ存在は、その力がどのような方面に働こうとも神なのである。そして理由のふたつめは、紀の本文によると素戔嗚尊は手に入れた神剣を「是神しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安けらむや」と天神に献上し、記でも同様に天照大御神に献上したからである。つまり神剣は天照大神の所有物となったため、より神聖な品になったわけだ。
 こうして高天原の天照大神のもとに、神鏡・神剣・神璽の品々は揃うことになり、やがて地上世界を瓊瓊杵尊に統治させるための降臨が決定し、このいわゆる天孫降臨に際して三種の神器は瓊瓊杵尊に託される。『古事記』では「八尺の勾珠、鏡、及草那芸剣」として名称が挙げられ、三種の中で曲玉が筆頭に記されていることはやや不思議だが、中でも神鏡が特に尊ばれていることは確かで、神器を授けるときの天照大御神の言葉に神鏡にだけは言及され、「此れの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝くが如、伊都岐奉れ」という。すなわち、この鏡は私の魂が宿っているものとして私に対するようにお祀りしなさい、と、まさに八咫鏡は天照大神そのものと見なしてよい尊貴の神鏡と位置づけられている。
 類似の記述は『日本書紀』では一書のひとつに見える。初めに降臨する予定だった天忍穂耳尊に対しての言葉だが、天照大神は「宝鏡」を尊に授ける際に、「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡とすべし」と述べている。また別の一書では神器が三種とも挙げられ、天照大神が瓊瓊杵尊に「八坂瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種の宝物を賜ふ」とある。ここでも記と同じように、曲玉・鏡・剣の順で記述されており、記と同種の記録が参考にされたか、あるいは記述の順序に意図があるとは限らないと考えてよいのかもしれない。より気になるのは、『日本書紀』の本文に、神器についての記述が見られないことだが、このことについてはまた後で触れることにしよう。ちなみに記紀ともに「三種の神器」なる言葉はなく、上記の「三種の宝物」がそれに近い。

-神話- 神器の移動
 記および紀の一書において、瓊瓊杵尊は神器とともに降臨し、大国主神に代わって地上を統治することになる。
 しかし神器そのものは、これ以降、明確な姿を持って語られることは滅多にない。神武天皇即位前紀に「天神の子」という饒速日命と神武天皇が血統の正しさを証明し合う場面があり、神武天皇は「是実に天神の子ならば、必ず表物あらむ」と、正統性の証となるものを提示することになるのだが、このとき両者が提示したのは「天羽羽矢一雙及び歩靫」という矢とその容れ物であった。天神の子であることの証となるものが神器ではないというのは、この伝承が成立した時期にはまだ神器の位置づけは定まっていなかったということだろうか。神武天皇以降、古代の天皇が即位する際にもしばらくは神器の継承は語られない。
 第十代の崇神天皇のとき、神器の在り方に大きな変革がなされる。とはいっても、やはり神器そのものは明示されていないのだが、天皇の住まいの中に祀られていた「天照大神」の神威を恐れ、別の場所に祀ることにしたのである。これは上述した紀一書で天照大神が天忍穂耳尊に鏡を授ける際に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡とすべし」と命じた内容を背景としている。つまり崇神天皇のときまでは、天照大神と同等とされる宝鏡が天皇と同じ御殿に奉斎されていたらしい。しかし、神鏡や宝鏡、また八咫鏡といった物品を示す語はまったく用いられない。念のため『日本書紀』から当該記事の一部を引くなら、崇神天皇六年に「故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る」、そして第十一代の垂仁天皇二十五年に「天照大神を豊鍬入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ」、また右の異伝に「天皇、倭姫命を以て御杖として、天照大神に貢奉りたまふ。是を以て、倭姫命、天照大神を以て、磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祀る」とある。豊鍬入姫命や倭姫命が天照大神という神を各地で祀ったことはわかるのだが、神鏡そのものの姿はまったく見えてこないのである。これが何を暗示しているのかについては、神武天皇が身分証明として神鏡を提示しなかったことと同じだろう。
 ともあれ、天皇の元から離された「天照大神」はやがて倭姫命によって伊勢国に到り、伊勢神宮が建てられることになる。ただ少なくともこの『日本書紀』が成立した当時、伊勢神宮においては八咫鏡を御神体として天照大神が祀られているのは確実である。天石窟神事にまつわる場面の一書のひとつに「鏡を以て其の石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。其の瑕、今に猶在。此即ち伊勢に崇秘る大神なり」とあり、高天原で行われた神事に用いられた神鏡が伊勢神宮に祀られているというわけで、神話と現実を直結させた理解が明記されている。しかしあくまでもこの記事は一書、つまり異伝であって、正式な本文ではない。本文において神器の影が薄いのは、やはりその位置づけがさほど固まってはいなかったことを意味しているかと思われる。
 さて、これまた記紀に明記されていないことだが、神剣草薙剣も天皇の元から離され伊勢に遷っていたらしい。第十二代の景行天皇のとき、皇子の日本武尊が伊勢神宮を参拝した折に倭姫命から神剣を授けられたことが記紀ともに語られている。そして日本武尊は尾張国で宮簀媛のもとに神剣を置いたままで立ち去り、その後は熱田神宮に奉斎されていることが景行天皇紀五十一年の記事「日本武尊の佩せる草薙横刀は、是今、尾張国の年魚市郡の熱田社に在り」などからもわかる。しかし神鏡の移動が不明瞭なことと同じように、神剣の朝廷から伊勢への移動だけでなく、日本武尊による熱田への移動も不明瞭といえる。なぜなら尊による神剣の使用は、『古事記』では相模国で野に火を放たれたとき「其の御刀」によって草を切ったことしか語られず、『日本書紀』でも同様で、しかもそれは「一に云はく」という異伝に過ぎないのである。
 そのように見てくると、日本武尊が宮簀媛のもとに神剣を置いていったという話もまた怪しくなってくる。
 神剣を手放した尊はその後、山の神の神威に圧され、衰弱したのち能褒野で亡くなってしまうのだが、膽吹山で尊を苦しめた神は大蛇に化して姿を現していた。八岐大蛇の尾から出て来た神剣の加護を失った尊は、大蛇の姿の神によって苦しめられるということで、神剣が持つ力を表現しているのだろう。そこに問題はない。
 問題は、膽吹山から尾張に戻るも何故か神剣を得ようとすることなく伊勢の尾津に至ったとき、一本の剣を見出し、それはかつて尊がその地に忘れ置いた剣だった、という話が記載されていることである。神剣を媛の元に置いていった尊が別の場所に置き忘れていた別の剣を見出すことに、何の意味があるのだろうか。残り僅かの尊の人生にとって、忘れていた剣との再会はまったく意味をなしていないのである。思うに、尾津に剣を忘れ、のちにそれを発見したという伝承は元からのものだろう。その剣の紛失によって尊は山の神に敗れて死に至るという展開だったものを、熱田に祀られている神剣の存在を組み込むために、倭姫命から託された神剣を尊が宮簀媛のもとに残したことにしたのではなかろうか。
 いずれにしても記紀の話の展開によれば、このようにして神鏡は伊勢に、神剣は熱田に、そして明示されていないが神璽は天皇のもとにと分散して存在することになる。これらの鏡剣玉は神器の本体なのだが、それでは分身とされる神器はどのような経緯で生まれたのかについては、記紀に語られることはない。後述するように、いつの間にか天皇の即位に際して継承されているようである。ただ、平安初期に撰録された『古語拾遺』に、神の勢いを畏れた崇神天皇が「更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す」とあって、神鏡と神剣を手放す前に新たな鏡と剣をこしらえ、天皇を守護する品としたという。そしてこれらの新しい鏡と剣は、「是、今践祚す日に、献る神璽の鏡剣なり」といい、つまり天皇が即位する際に継承している鏡と剣(この場合の神璽は曲玉のことではなく「神聖なしるし」という程の意味)なのだともある。この『古語拾遺』の記述が古くからの伝承か、それとも当時の現状を理解する合理的な解釈かは分からないが、ひとまず神器の分身には、このような理解が最も古い。
 ちなみに、神器の分身のことを「レプリカ」と称する人もあるが、少なくとも『古語拾遺』からは、新たに作られた鏡と剣と理解されるのであって、模造品ではない。世に多くの神社が鎮座しそれだけ多くの御神体が祀られていても、それら御神体をレプリカと呼ばないことと同様である。

 

○-歴史-
 この項では、神器の歴史的な変遷について概観する。ただし『日本書紀』などの古い記事が本当に歴史的な事実なのか明確にし得ないことは多く、それはまた時代の下った文献においても同様であろう。とりあえずは神話世界から歴史的世界への過渡期も含め、神器にまつわる歴史的事実らしきことについて、南北朝時代の混乱が収まるあたりまでを中心にして見ていくことにする。

-歴史- 皇居の神器と罹災史
 前項に述べたように、『日本書紀』に記された歴代天皇の即位の場面に神器が明記されることは少ない。とくに初期の天皇にはその影すら見えず、『古語拾遺』に神器の分身が作られたとされる崇神天皇以降であっても(たびたび用いている分身という表現については後述する)、たとえば垂仁天皇のときは「皇太子、即天皇位す」、景行天皇のときも「太子、即天皇位す」とあるのみで、他の天皇においても類似の簡素な表現が用いられている。ただ第十九代の允恭天皇の場合、「天皇の璽符を上る」「天皇の璽符を捧げて、再拝みて上る」とあって、即位に際して「璽符」が奉られたとされている。璽符は文字通りに理解するなら天皇の印と割符ということになるが、当時そのようなものが存在したのかどうかはもはや解らず、後に言うところの神器を意味するとは思われるのだが確かではない。「みしるし」と読まれるこの璽符についての記述が允恭天皇のときに現れたのは、天皇が当初、病弱等を理由に即位を拒んでおり、妃や群臣の度重なる要請があってようやく即位したという経緯が語られているため、他の天皇のような簡素な記述には見られない形容が必要だったからだろう。
 その後、第二十二代清寧天皇「璽を皇太子に奉る」、第二十三代顕宗天皇「天子の璽を取りて、天皇の坐に置きたまふ」と、しるしを意味する璽が用いられ、第二十六代継体天皇の即位においてようやく「天子の鏡剣の璽符を上りて再拝みたてまつる」とあって、璽符なるものが鏡と剣であることが明記される。また第二十八代宣化天皇のときにも「剣鏡を武小広国押盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」とあり、またしばらくは「璽印」「璽綬」といった言葉のみになるが、『日本書紀』で最後に記される第四十一代持統天皇のときに「神璽の剣鏡を皇后に奉上る」という表現が用いられることになる。
 これらの記述を見ていると、璽・璽符・璽印・璽綬といった語が果たして本当に鏡や剣を指しているのか、疑問が湧かないでもない。というのは、継体天皇のときの「天子の鏡剣の璽符を上りて」と読ませている漢文は「上天子鏡剣璽符」とあり、「天子の鏡・剣・璽・符を上る」と読むなら、璽符であるところの鏡剣ではなく、鏡剣と璽符、と並列的に理解されるのである。ただこの場合は、続いて天皇が「璽符を受く」とあるので、璽符のみを受けたとは考えられないため、鏡剣を総称して璽符と呼んでいると理解される。また持統天皇の場合の「神璽の剣鏡を皇后に奉上る」も「奉上神璽剣鏡於皇后」とあって神璽と剣鏡を並列に理解することも可能だが、『日本書紀』より早くに完成したという「養老神祇令」に「忌部上神璽之鏡剣」すなわち「神璽の鏡剣」とあることからすれば、神璽であるところの鏡剣という理解でひとまずは問題ないかと思われる。
 このように天皇の即位においては、歴史的事実かどうか不明瞭な古代の天皇の場合はともかくとして、当初は神鏡と神剣がその位を象徴するしるしとして継承されていた。しかし、やがて儀式に変化が生じ、『日本後紀』によれば第五十代の桓武天皇が崩御したとき「璽并びに剣の櫃を東宮に奉る」とあって、この場合の璽は神器の総称ではなく、剣と並び称されるもの、すなわち神璽、八坂瓊曲玉のことである。つまり先帝の崩御に続いて神剣と神璽が新天皇のもとに移るという、現在の「剣璽等承継の儀」(かつては「剣璽渡御の儀」という。後述する)につながる儀式となっている。
 さて、平安以降の皇居の神器は、神剣と神璽については天皇の寝室「夜の御殿」にあり、そして神鏡は温明殿に安置され内侍という女官によって護られていた。したがって現在と同様で、神剣と神璽は簡単に持ち運びすることは可能だが、神鏡はまさに神社の御神体のように隔離されたような扱いとなっている。もちろん剣璽ともに尊重すべき品と扱われていることは間違いないとはいえ、神鏡は記紀に伝えられた天照大神の神勅にあるように、特に崇められ、『本朝世紀』に引かれた平安中期の記事に「往古の時より神明と号す」「伊勢大神の分身(註、または身分)なり」と説明されるごとく特別視されていたわけである。
 しかしそのような扱いのためもあって、温明殿に安置されている天照大神の分身たる神鏡がいかなるものか、よくわからないことにもなっていた。
 伊勢大神の分身なり、と説明された記事のときから数十年後の天徳四年(九六〇)、御所は火災に見舞われた。剣璽は無事に持ち出せたが温明殿はなすすべもなく焼け落ち、神鏡は焼亡したと思われるも、奇跡的に無事な姿で発見された。しかし、焼け出された鏡は何故か計三枚あり、それぞれ伊勢、日前、国懸の鏡と判断されることになる(小右記)。上述のように天石窟神事において最初に鋳られた鏡が日前神宮に祀られたという伝承はあっても、国懸神宮にまつわるものはなく、またそれらの分身のような鏡が宮中に入ったという伝承もない。なくとも、神鏡が奉安されている筈の温明殿から現出したからには、そのように判断せざるを得なかったのである。
 そして寛弘二年(一〇〇五)に起こった火災では、ついに神鏡は破損し、長久元年(一〇四〇)の火災ではわずか数粒の金属粒と化してしまったという。それでも寛弘二年の場合は焼け出された神鏡を新しい唐櫃に収める際に部屋の中が光り輝き、改鋳を検討しているときに蛇が出たといい(御堂関白記)、また長久元年のときは内侍所の女官の夢に蛇が現れて居場所を示したりと(春記)、神威を発揮したらしい。
 粒と化したとはいえ、神鏡とされるものは残り、現存している。しかし元暦二年(一一八五)、宮中に伝わる神剣は海底へと沈み、失われてしまう。源平合戦の結果、平家側は幼い安徳天皇と宮中の神器ともに壇ノ浦に身を投げ、神鏡と神璽は回収されたが、神剣はどうしても見つからなかったのである。この混乱の中で後鳥羽天皇は神器が手元にないまま即位し、次の土御門天皇も神剣がない状態で即位、そして順徳天皇が土御門天皇から譲位されたとき、「夢想」により伊勢神宮から剣が献上され(禁秘御抄)、これを神器とすることになったという。したがって宮中の草薙剣は崇神天皇以来の神剣ではなく、二代目ということになる。
 やがて時代は南北朝の混乱期を迎え、宮中の神器にはまた様々な局面が訪れる。いったいどれが本物なのかわからなくなるほど混迷し、神話世界以降なにかと影の薄かった神璽、曲玉にも大きな災難が降りかかる。
 南北のふたつに天皇が立つと、やはりどちらが正統な天皇であるのかが問われることになる。そこで問題になるのは、どちらが神器を所有しているのか、である。後醍醐天皇が倒幕に奔走したため、鎌倉幕府は光厳天皇を神器のないままで即位させ、やがて捕らえられた後醍醐天皇(幕府側の立場では上皇)は神器を光厳天皇のもとに引き渡した。しかしすぐに幕府は倒され後醍醐は再び京に入るが、神璽は保持していたので自分は以前と変わらず天皇であり、ゆえに重祚ではなく、遠い行幸から帰ってきただけと主張したらしい(増鏡)。事実は不明だが、偽の神璽を光厳天皇側に渡していたか、あるいは自尊心ゆえの主張なのだろう。
 こうして後醍醐天皇は建武の新政を開始するが短期間で失敗に終わり、足利尊氏が即位させた光明天皇に神器を渡したのち、吉野へと逃れる。しかし吉野においても後醍醐天皇のもとには神器が揃っていたといい、光明天皇には偽の神器が渡ったとされるが、これまた事実は不明である。とはいえ、後に勢力を増した吉野の南朝側は北朝側の所持する神器を接収しており、このことからすれば、やはり後醍醐天皇は皇位の正統性を主張するために神器の所有を称していたかと思われる。系譜の上で北朝の第二代、実質には北朝初代の光明天皇が即位してから五十六年後の明徳三年(一三九二)、勢力を取り戻した北朝は南朝を取り込む形で、そしてもちろん南朝が有していた神器を受け取って合一を果たした。しかし旧南北両朝から交互に天皇を出すという合意は守られず、不満を蓄積させていた旧南朝側が嘉吉三年(一四四三)、宮中を襲撃し、神剣と神璽を奪うという事変が発生する。神剣はすぐに取り戻されたが、神璽はいわゆる後南朝のもとにおかれたままとなり、奪還に成功して京の天皇のもとに神璽が戻るのは長禄二年(一四五八)のことである。以降、宮中の三種の神器は現在に至るまで、代々の天皇によって無事に継承され続けている。

 

-歴史-  伊勢と熱田の神器
 伊勢神宮に祀られる神鏡、すなわち神器としての八咫鏡の本体は、先述のように『日本書紀』一書によれば天石窟に差し入れるときに小さな傷がついてしまったといい、「其の瑕、今に猶在」と記される。もちろん神話との接点は歴史ではないが、神鏡に小さな傷があることはおそらく事実だろう。御神体ゆえに滅多に人の目には晒されないとはいえ、創建の当初から秘匿され続けていたわけではなかろうし、持統天皇四年(六九〇)に初めて行われたという式年遷宮のときか、または火災など非常時のときなどに傷の存在が確認されたかと思われる。
 火災といえば、宮中と同じく神宮も何度か火災に見舞われている。なかでも神鏡の安否に関わる大きな被災の例を挙げると、『日本書紀』が成立した後のことだが、延暦十年(七九一)の八月三日に起こったこととして、『続日本紀』に次のように記されている。「夜に盗有りて、伊勢太神宮の正殿一宇・財殿二宇・御門三間・瑞籬一重を焼けり」。盗賊が入って火をつけられたか何かにより、「正殿」つまり御神体が奉安されている御殿などが焼かれてしまったというのである。しかし神鏡の安否については語られず、十日後に奉幣がなされ、社殿の修理が始まったことが記されているのみであることからすれば、無事だったらしい。
 この火災は神宮側の資料にも記載されている。ただし同時代の史料ではなく、平安の中期から末期にかけて神宮禰宜により書き継がれた『太神宮諸雑事記』の記事だが、同記事によれば延暦十年の八月五日、盗賊が手にしていた松明が落ちて火がついてしまったとされる。さらに御正殿内の御神体の安否についても触れ、「御正体」と「左右の相殿の御体」すなわち八咫鏡と相殿神の御神体は、「猛火の中より飛び出し御ひて、御前の黒山の頂に光明を放ちて懸かり御へり」という。火を逃れるため自ら飛び出したといった神話的な記述で彩られているとはいえ、一応は神鏡の無事が語られているということにはなるだろう。なお、『太神宮諸雑事記』によれば十二年前の宝亀十年(七七九)の八月五日にも御正殿等が火災によって焼けたことが記されている。こちらは宮司による私祈祷の際に篝火が落ちたことを原因とするが、同様に「正体并びに左右の相殿御体」は猛火から飛び出したという。しかし他の史料に見えない話で、しかも「宝亀十年八月五日夜丑時」と「延暦十年八月五日夜子時」、同じ未年の十年で月日も同じ、時刻も近いことに記録の錯綜や重複等を想像できなくもない。いずれにしても、事実はもはや解明できないことではあるが、これらの記事において神鏡は無事だったとされている。
 熱田神宮の神剣、すなわち草薙剣の本体にまつわる災難には、『日本書紀』によれば盗難に遭ったという記事がある。真実かどうかは不確実だがどのような経緯が記されているのかといえば、天智天皇の七年(六六八)に「沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、荒迷ひて帰る」とのみあって、無事に取り戻されたようではあるが、詳しいことは語られない。そして次に神剣の状態が知られるのは盗難事件から十八年後、天武天皇の朱鳥元年(六八六)の記事に「天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く」と、これまた短く語られるのみで、道行から取り戻した神剣はなぜか朝廷が保管していたらしく、占いによって天武天皇の病が神剣による祟りと判明したため、すぐに熱田神宮へと送られたという。
 いくつもの疑問点が神剣にまつわるふたつの記事から浮かび上がる。伝承の上では日本武尊のとき以来、神剣は熱田の地に祀られていたとされているが、道行は熱田社から盗んだのか。ならばなぜ神剣は天武天皇のときまで朝廷の側にあったままなのか。そして占いが根拠とはいえ、なぜ天皇に祟ったのか。熱田の地で祀られることを望んだ神剣が天皇に抗議の意味を込めて祟ったという理屈は成立するが、熱田にこだわったのであれば、それは天照大神ではなく日本武尊の意志と考えるべきなのか。ともあれ、神剣を熱田に送っても(紀の表記では「送」とあって返や還ではないこともまた疑問を助長させる)、三ヶ月後に天武天皇は崩御してしまうことになる。
 もうひとつ神剣が被った災難を挙げるなら、正応四年(一二九一)二月、熱田神宮で火災が起こり、多くの建物が灰となった。このときの様子を、あまり正確な記録ではないと思われるが二条の『とはずがたり』に見ることができる。二条は第八十九代後深草天皇の女房で、出家したのち旅先の熱田でたまたま火災に遭遇したらしい。それによると火がおさまりかけて神職たちが見まわっているとき、神代に神がみずから作って籠もったという「開けずの御殿」の礎の近くに、「漆なる箱の、表一尺ばかり、長さ四尺ばかりなる、添へ立ちたり」という不思議な状況があった。やがてそこにやって来た神職が箱を少し開けて中を見ると、「赤地の錦の袋に入らせたまひたりとおぼゆるは、御剣なるらむ」と言ったというのだが、焼けることなく置かれていたかのような箱の中にあると判断された「御剣」とは、少なくとも二条の書いた文脈からすれば草薙剣を指しているようである。社伝によれば永正十四年(一五一七)に土用殿という御殿が建てられ、その中に草薙剣が奉安されたという。しかしそれ以前にも本殿とは別の御殿に草薙剣は祀られていたらしい。

 

-歴史- 現代の神器
 改めて書くなら、宮中の神器は賢所に神鏡、両陛下寝室隣の剣璽の間に神剣と神璽が奉安されている。神鏡は神社の御神体と同じで滅多に動かされることはないが、戦時中には空襲を避けるための御動座があり、その後は平成十六年に宮中三殿の耐震調査のため、そして同十八年には耐震工事のため仮殿へと遷られている。
 神剣と神璽は玉体を直接に守護する役割もあるため、重要な宮中祭祀においては剣璽の間を離れ、陛下の前後で捧持される。戦前は一泊以上の行幸に際しても伴われており、天皇専用の車両には剣璽を安置するための棚が設えられ、まさに片時も天皇から離してはならない「護の御璽」であるわけだ。しかし行幸の剣璽御動座は、戦後になると天皇にまつわる宗教性を希薄化させる流れの中であまり行われなくなり、最近では伊勢神宮が式年遷宮を終えた翌年の平成二十六年、参拝された際に行われ、それは前回の遷宮のとき以来の御動座だった。
 熱田神宮の神剣は、古くから本殿とは別の御殿に祀られていたようだが、十六世紀初頭以来は土用殿という御殿に祀られていた。しかし明治になると伊勢神宮と同じ様式の社殿に改められ、神剣も本殿内に主祭神として祀られることになった。建造物として残されていた土用殿は昭和二十年に空襲によって焼失し、現在の境内に建っている土用殿はのちに復元されたものである。このような空襲による被害を避けるため神剣は一時的に防空壕へと遷座されたり、また同年の八月から一カ月間ほど岐阜県の水無神社に遷座されていたこともあるが、それ以外は本殿にて祀られている。なお明治期には明治天皇によって、そして防空壕への遷座の際には昭和天皇によって神剣が収められている箱に勅封が施されたといわれる。
 勅封といえば、伊勢神宮の神鏡も明治天皇によって封ぜられたといい、『明治天皇紀』によれば三十四年に「現今の御樋代を以て永世の御料と定め、自今以後之れを開閉せざらしむ」という。神鏡は錦の袋に包まれ、それが黄金の御樋代という筒状の容器に収められ、さらに檜の御樋代に、そして更に舟形の御船代に収められて御正殿に安置されている。式年遷宮のたびにそれらの容器も新規に作られるのだが、現代の遷宮においても御樋代の用材は求められているため、永世の御料とされたのは黄金の御樋代かと思われる。いずれにしても明治期以降は、遷宮に際して神宮の神職であっても神鏡を眼にするどころか、手に持つこともないらしい。
 さて、これらの神器のうちで皇位継承に伴い儀式において持ち出され、受け継がれるのは、前述のように『日本書紀』の例では宮中にある神鏡と神剣だったが、後には神剣と神璽の二種となる。昭和天皇が神器を継承したときの様子はどのようなものだったかというと、父の大正天皇は葉山御用邸の附属邸にて静養中に崩御したため、そのとき滞在していた皇太子で摂政の裕仁親王(後の昭和天皇)に附属邸において「剣璽渡御の儀」が行われた。侍従が残した著作によれば、「先帝の侍従、海江田、黒田の両名に、おのおの、神剣、神璽を捧持させて、新帝の御前に進み、新帝の起立された前にある卓の上にこれを安置し、謹んでお承けを願」ったという(宮中見聞録、木下道雄)。そして宮中賢所では同時刻に皇位の継承があったことが掌典長によって奉告され、すなわち神鏡に宿るとされる天照大神に対して代替わりが告げられている。つまり、天皇御自身は特に何かをされるのではなく、眼前に剣璽が置かれることで継承者の交代を表すというだけではある。このことは昭和天皇の崩御から早くも三時間半後に行われた今上天皇の場合もほぼ同様で、異なるのは場所が宮中正殿松の間で儀式の名称を「剣璽等承継の儀」という。三権の長と全閣僚が見守る中、当時の男性皇族六名(桂宮親王は療養中)が天皇を中心に整列し、剣璽の他に御璽と国璽も中央の天皇の前に置かれた。そしてすぐに退出されるのだが、その際には神剣を捧持した侍従を先頭に、その後ろに天皇、神璽を捧持した侍従、皇太子、皇位継承順に皇族、御璽と国璽、といった並びであり、天皇は神剣と神璽によって前後を護られての退出である。
 平成三十一年四月三十日に今上天皇が退位され、翌五月一日に新天皇への剣璽等承継の儀が行われるらしい。譲位による代替わりであるから前回の二例と雰囲気は違って晴れやかであろうし、式次第も多少は異なるのだろう。しかしおおよそは上記のような簡単な次第によって、粛々と行われるかと思われる。

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