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●解説のページ【神話篇】★工事中★
□「『古事記』の基礎知識」
□「『日本書紀』の基礎知識」
□「日本神話ガイド」

日本書紀の隙間の話

[はじめに/1.そらみつ大和国/2.1792470年間/3.河神の祟り/4.大虬の祟り/5.鹿になった陵守/6.死を予見する鹿の夢/7.履中天皇皇妃への祟り/8.大鰒の真珠/9.浦嶋子伝承/10.毛野臣の盟神探湯/11.継体天皇の崩御/12.佐渡島の怪事/13.蘇我稲目と神道/14.蘇我馬子と仏教/15.雷神と小魚/16.謎の甘樫丘/17.皇極天皇の御世の天候/18.斉明天皇の重祚と崩御/19.祟りの宝剣/20.鼎の音](R02.2.29-6.5)

はじめに
 記紀と総称される『古事記』と『日本書紀』が、日本の神話や古代史を知るための基本的な文献であることは言うまでもない。その『古事記』が成立したのは和銅五年、西暦でいえば七一二年であるため、一三〇〇年の節目となる二〇一二年の前後には神社参拝の流行と相まって、一般向けの関連書籍も多く出版された。となれば『日本書紀』が成立した養老四年、七二〇年からの節目となる二〇二〇年の前後にも関連した書籍が多く著されると思われるが、おそらく『古事記』ほどではないだろう。
 というのは、『古事記』は童話を思わせるほど物語性の強い、少なくとも表面的には理解しやすい内容であることに対し、『日本書紀』は巻数において『古事記』の十倍、しかも本文〈本書〉に場合によっては複数の異伝〈一書〉が並記されており、本文だけを追っても内容を掴みにくいため、なかなか手軽にはこれが『日本書紀』の内容ですよと提示しづらいからである。もちろんじっくり読めば把握できるとはいえ、特に時間をかけて把握に努めようとする読者は限られているだろう。『古事記』とは異なり『日本書紀』は、一般の読者にとって簡単には手を出しづらいのである。
 そこで、『日本書紀』の全体像を提示し解説しようとする試みは他の人に任せるとして、ここでは、本筋ではなく、やや外れた挿話や逸話について取り上げ、紹介および若干の解説をしていきたい。したがって、よく知られた天照大神の磐窟籠もりや天孫降臨などといった話については、正面から取り上げることはしない。しかしそれでも、日本の神話が語られている書物といえば『古事記』しか知らないといった人たちに、多少は『日本書紀』へと誘うきっかけになって貰えるのではなかろうか。
 なお、このページは「myths」と銘打たれているが、取り上げるのは神話ばかりではないことを予めお断りしておく。更に蛇足として追記したいのは、掲載しているのはかなり簡略化した解説であるため、書籍ならより詳細に書き改めたいところだ。出版関係者の興味を引くことがあればありがたい。

1.【そらみつ大和国】
「饒速日命、天磐船に乗りて、太虚を翔行きて、是の郷を睨りて降りたまふに及至りて、故、因りて目けて、虚空見つ日本の國と曰ふ」
 
 『万葉集』巻第一の筆頭に置かれている歌は雑歌で、「泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇の代 大泊瀬稚武天皇」の「天皇の御製歌」、すなわち第二十一代の雄略天皇の御製とされる。この歌に「虚見津大和の国はおしなべて吾こそ居れ」という一文がある。「虚見津」は「そらみつ」と読み、大和にかかる枕詞で、語義については例えば伊藤博の訳注に「神の霊威の満ち拡がる意」(角川ソフィア文庫)というが、確定的ではない。『古事記』でも同様に用いられ、第十六代の仁徳天皇の御製に「蘇良美都夜麻登能久邇」などと見えるが語義にまつわる記述はない。しかし、この「そらみつ」という言葉がなぜ大和国にかかるのかについての説明が『日本書紀』には記されている。神武天皇三十一年の条に国を称え修飾する語句についての伝承が列挙されており、そのなかに冒頭の饒速日命についての伝承があって「虚空見つ日本の国」の由来が語られているのである。
 饒速日命という神は『先代旧事本紀』で瓊瓊杵尊の兄とされるも、記紀においては天つ神らしいが系譜のはっきりしない神である。その饒速日命が天磐船に乗って空を飛び、この国を見て降りてきたので「空から見えた日本国」といったのだと伝えられているわけだ。真床覆衾に包まれて降臨したと伝えられる瓊瓊杵尊が統治する国の名称にまつわる言葉の由来が、その瓊瓊杵尊ではなく、正体の不確かな神の言動に寄せられているというのは不思議なことであろう。前掲の伊藤訳注からもわかるように、『日本書紀』に伝えるこの饒速日命の伝承が「そらみつ」の由来だと確定しているわけではない。しかし記紀の編纂時にそのように認識されていたことは確かで、漠然とした天上世界ではなく、具体的な空を飛ぶ船から神がこの日本を眺めていたという設定に、不思議というよりも何か胸躍るような面白味を感じさせる。


2.【1792470年間】
「皇祖皇考、乃神乃聖にして、慶を積み暉を重ねて、多に年所を歴たり。天祖の降跡りましてより以逮、 今に一百七十九萬二千四百七十餘歳。而るを、遼はるかなる地、猶未だ王澤にうるほはず」

 いわゆる偽書とされる文献には、常識的には考えられない超歴史的な年代が書かれていたりすることが多いが、記紀にもそのような年代は見られなくもない。『日本書紀』では右の記述がそうで、語っているのは東征を果たす前の神武天皇である。天祖瓊瓊杵尊が降臨して以来、百七十九万二千四百七十数年を経ているというのに、いまだ遠くの地には王の恵みが行き及んでいない、と嘆いている。
 百七十九万年という途方もない数字は、神代の時の神秘性を際立たせるためなのかもしれないが、具体的な数字そのものの根拠は不明である。上に引用している言葉の前には「火瓊瓊杵尊、天關を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります」とあって瓊瓊杵尊の降臨が語られ、続けて引用しているように以降の「多に年所を歴た」ことが説明され、さらにそこに加えて「天祖の降臨から百七十九万年が経った」と語る流れにはやや違和感を覚える。つまり具体的な年数の表明は本来はなかったものを、あとから追記されたのではないかと思えるのである。ただ、弘仁二年(八一一)に成立した『歴運記』にも同様の年代が記されているため、たとえ後世の竄入としてもかなり古い時代のものといえよう。
 神話的な記述とはいえ『日本書紀』のなかで異色のこの年数は、古代の聖なる時空に思いを馳せる人々に訴えかけるものがあったらしい。鎌倉時代に伊勢神宮外宮の神性を高めるため成立したと思われる文献に、この途轍もない年数が改変され利用されることになる。すなわち『倭姫命世記』に、瓊瓊杵尊の治世が三十一万八千五百四十三年、火火出見尊が六十三万七千八百九十二年、鵜草葺不合尊が八十三万六千四十二年と記されている(合計が百七十九万二千四百七十七年)。
 この年数に関して、実証的研究で知られる本居宣長は次のような正否の判断を下している。宣長は外宮の文献を一概に偽書と切り捨てるのではなく、正しい古伝と思われるものについては適切に扱おうとする態度を取るが、この『倭姫命世記』に記される個別的な年数については否定し、しかし『日本書紀』の百七十九万年については肯定している。肯定の根拠は否定する理由がないからで、そして『倭姫命世記』の年数を否定するのは、『古事記』に穂穂手見命(火火出見尊)の治世が「伍佰捌拾歳」すなわち五百八十年だったと記されていることと異なるからである。さらに邇邇芸命が石長比売を拒絶したために子孫の寿命が短くなったという『古事記』の伝承からすれば、逆に年数が増えているのはおかしいというのが根拠ともされる。五百八十年という年数もまた常識外れではあるが、理屈としては筋が通っている。

 

 

3.【河神の祟り】
「河神、祟りて、吾を以て幣とせり。是を以て、今吾、來れり。必ず我を得むと欲はば、是の匏を沈めてな泛せそ。則ち吾、眞の神と知りて、親ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自づからに僞の神と知らむ。何ぞ徒に吾が身を亡さむ」

 仁徳天皇の十一年、皇居近くの河に堤(茨田堤)を築こうとしたが、なぜか二箇所だけすぐに崩れてしまう。すると天皇の夢に神が現れ、「武蔵人の強頸」と「河内人の茨田連衫子」の二人を河の神に捧げるなら必ず塞ぐことができるだろうと言う。そこで探し当てた二人を神に捧げることにすると、強頸は泣き悲しみながら水の中に入って死ぬが、衫子は二つの瓢箪を河に投げ入れて祈った。そのときの言葉がこれである。つまり、瓢箪を沈めることができるなら本当の神だから私は進んで身を捧げよう、しかしそれができないのなら偽の神だから、無駄死にをするつもりはない、と神に提案した。結果、瓢箪は沈むことなく流れ去ってしまったので、衫子は助かり、堤も無事に完成したという。
 瓢箪を沈められたなら要求に従うと交渉する話は昔話にも見られる展開で、その原形ともいうべきものだろう。ただしこの話では強頸という人物は神の託宣や天皇の権威に抗えず、嘆き悲しみながら命を失うことになるという悲劇が伴ってる。
 この話には気になる点がふたつある。ひとつは茨田連衫子が「河神、祟りて、吾を以て幣とせり」と、河神が生贄を求めることを「祟り」と呼んでいることだ。祟りとはなんだろう。河神は強頸や衫子に大きな怨みがあったのか、それとも贖いとして生贄を要求するほどの別の何かに対する怒りがあったのか。しかし理由が明記されることはない。強頸にいたっては遠く離れた武蔵国の人間なのである。
 この場合の祟りとは、折口信夫の言うところの「立ち有り」の意味と思われる。天皇が淡路島で狩りをしたとき、まったく収穫がないので占うと、島の神が「祟りて」、明石の真珠を私に捧げてくれるなら獲物を与えようと言った、という話が允恭天皇紀に見える。天皇が過ちを犯したのではなく、単に神が真珠を要求し、その見返りを約束したことが祟りだとされているのである。これを例にして折口は、祟りの語は「立つ」と「あり」が複合したもので、古くは神意が現れ出るという意味だと説いている。何かに対して怒り罰を与えるといった動機がなくとも、神の意志の表れは祟りと表現されるのである。
 ふたつめの気になる点は天皇の夢に現れた神と河神が同一神なのかどうかだ。もし同じ神なら、天皇の夢に現れその権威を利用した河神は最終的に「偽の神」と判断されるから、天皇の権威も揺らぐことになる。同じではなく別の神が河神の要求を天皇に伝えただけだとしても、やはり多少なりとも夢告の信憑性すなわち天皇の権威に疑いの目が向けられることになってしまいかねない。だがここで天皇の権威が問題になることはない。問題となるものについては、次に取り上げる話で明らかとなる。


4.【大虬の祟り】
「汝、是の匏を沈めば、余避らむ。沈むること能はずは、仍ち汝が身を斬さむ」

 前回と同じ仁徳天皇のときの話だが、かなり時は隔たっている。河神の祟りから五十六年後、すなわち仁徳天皇の六十七年のこととして、なぜか同様に瓢箪の浮き沈みで判断を下す話がもうひとつ記されている。吉備国の川嶋河に大虬(大蛇または竜)が棲み、近づく人を毒によって殺していた。そこで笠臣の祖の県守が三つの瓢箪を河に投げ入れ、「瓢箪を沈められるならこの場を去ろう。沈められないならお前を殺す」と宣言し、沈めることができなかった大虬は退治されるという話である。
 茨田堤の河神は最後に偽の神と判断されるにしても、神と呼ばれ、しかも天皇の夢託によってもある程度の権威は裏打ちされていた。しかしこの川嶋河に住む存在ははじめから神とは呼ばれない「大虬」であり、瓢箪を沈められないことは共通していながらも、こちらは滅ぼされてしまっている。
 この変化はよく知られた『常陸国風土記』の夜刀神の話に似ている。第二十六代の継体天皇の世、麻多智という人物が谷を開墾して田を作ろうとしたところ、角のある蛇の夜刀神が群れをなして現れて邪魔をした。麻多智は怒って武器を振るうが滅ぼすことはせず、山の登り口まで追い詰めて神と人の土地を分けた後、社を建てて夜刀神を祀った。しかしその後、第三十六代の孝徳天皇の世に、壬生連麿が同じ谷の池に堤を作ろうとして夜刀神が集まってきたとき、麿は「かまわずみな殺してしまえ」と命じている。蛇の神は時代の推移によって神として敬意を払われることなく、一方的にあしらわれるのみの存在へと矮小化されてしまったのである。河神も大虬も、夜刀神と同じく自然に密着した動物神であろう。人の世を統べる天皇の権威が高まるに従って、人の世を阻害する自然の権威は後退していくのである。県守が大虬とその一族を討ち滅ぼした仁徳天皇六十七年より以降は、「天下大きに平なり。二十余年あまり事無し」と、しばし平穏な時が流れたと特筆されている。


 

5.【鹿になった陵守】
「爰に陵守目杵、忽に白鹿に化りて、走ぐ」

 仁徳天皇六十年の話。天皇が日本武尊の白鳥陵の陵守に役を課したときのこと。日本武尊は天皇の曾祖父に当たるが、崩じて白鳥となった尊の御霊は各地の御陵を飛び去ったと伝えられるため、この陵(どの御陵かは不明)は「本より空し」と知られている。なので天皇は陵守を辞めさせ、役を課そうとしたのである。ところが、目杵という陵守が役の作業中、天皇の見ている前で突然、白い鹿に変化して逃げ去ってしまった、という。なので怪異を目の当たりにした天皇は、「今是の怪者を視るに、甚だ懼し。陵守をな動しそ」、畏れ多いから元のままにしておくようにと命じている。各地の白鳥陵に尊の遺体が収められているのではないとはいえ、決して何もない空っぽではなかったわけである。
 さて、前記の河神や大虬、そしてこの白鹿など、仁徳天皇紀には動物にまつわる話が多い。そもそも仁徳天皇の名は「大鷦鷯」というが、鷦鷯はミソサザイという鳥の名で、この名が付けられる由来譚も『日本書紀』には伝えられている。天皇が産まれた日、産屋に木菟(ミミズク)が飛び込んできた。父の応神天皇が武内宿禰を呼んで尋ねたところ吉祥だとの返答で、さらに宿禰にも同じ日に子が産まれ、その産屋には鷦鷯が飛んできたのだという。これを聞いた応神天皇は互いの鳥の名を交換して名付けるように提案した。それで皇子の名に鷦鷯が用いられているわけである。
 鹿といえば、古くから骨を用いた占いの鹿卜が行われたり、神の使いともされたりする聖獣である。仁徳天皇紀にはもうひとつ、切なく物悲しく、そして不可思議な鹿の話が語られている。


6.【死を予見する鹿の夢】
「牡鹿、牝鹿に謂りて曰はく、吾、今夜夢みらく、白霜多に降りて吾が身をば覆ふと。是、何の祥ぞ」

 仁徳天皇三十八年の話。天皇と皇后の、鹿にまつわる話がまずは記される。暑い夏の夜を高台で過ごしていると、摂津国の菟餓野の方から鹿の悲しげに鳴く声が聞こえてきた。二人は夜毎しみじみと聞いていたが、ある日を境に聞こえなくなった。するとその翌日、菟餓野の牡鹿の肉が献上された。心慰められていた鹿が狩られてしまったことを悲しんだ天皇は、罪を犯したわけではないとはいえ、献上した人物を都に近づけないように命じた。このような話に続き、「俗の曰へらく」、地元の民が言うには、という語り出しで次のような話が記載されている。
 昔、ある人が菟餓野で一夜を過ごした際に、二匹の鹿が傍に寄ってきていた。明け方が近づいたとき、牡鹿が牝鹿に対し、「昨夜は夢を見たよ。白い霜がたくさん降って私の体を覆っていたんだ。これはいったい何を意味するのだろう」と語った。すると牝鹿は、「あなたはきっと、人に射られて死んでしまうのでしょう。肉に塩を塗られることが、体を白い霜が覆ったことで表されているのです」と答えた。これを聞いていた人は不思議に思ったが、やがて夜が明けると狩人がやって来て、牡鹿を射て殺した。
 前述のように、鹿の骨は神意や吉凶を占うために用いられる。そして鹿の鳴く声は、猿丸太夫の「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」の和歌に見られるように、物悲しい声と人々の耳に響いている。このふたつの性格から生じた伝承ということだろう。ちなみに仁徳天皇が鹿の声を聞いて慰められていたのは「秋七月」のことと記され、まだ暑いが今の感覚でいう秋が近づいている頃か。牡鹿は秋になると牝鹿を求めて盛んに鳴くという。やや時期的にずれているのかもしれないが、殺される牡鹿が牝鹿とともに語られているのは、そのためだろう。


 

7.【履中天皇皇妃への祟り】
「大虚に呼ふこと有りて曰はく、劒刀太子王、といふ。亦呼ひて曰はく、鳥往來ふ羽田の汝妹は羽狭に葬り立往ちぬ、といふ。亦曰はく、狭名來田蔣津之命、羽狭に葬り立往ちぬ、といふ」

 履中天皇は仁徳天皇の子で、第十七代。宗像三女神と伊奘諾尊による警告もしくは祟りの話が、やや錯綜して記述されている。まずは五年の春、宮中に宗像三女神が現れ、「何ぞ我が民を奪ひたまふ。吾、汝に慚みせむ」という。民を奪ったということが何のことかこの時点ではわからなかったようで、天皇は三女神に祈祷を行ったが、祭祀までは行わなかった。
 続いて秋に天皇は淡路島で狩りをした。すると「嶋に居します伊奘諾神」が神官に懸かり、血の臭いに我慢ならないと訴える。占うと、お供の飼部らの入墨の傷がまだ治っていないためと判明した。
 そして翌日、風の音のような声が大空から聞こえてきた。それが冒頭の引用部分である。詳細は省くとして、「剣刀太子王」は天皇への呼び掛け、次の「羽田の汝妹」は皇妃の黒媛を指し、「狭名来田蔣津之命」は天皇のことと考えられる。両者が「葬り立往ちぬ」というから当然、忌まわしい宣告を意味するものである。すると淡路島に使者が突然やって来て、皇妃の死を伝える。
 神の祟りを抑えることができずに妃を失ったことを悔いた天皇は、原因を調べさせた。判明したのは、車持君が筑紫国で部民と宗像大社の神戸を奪ったということだった。そこで天皇は車持君の罪を責め、部民を取り上げて宗像三女神に奉った。
 これで一件落着したかと思われた。『日本書紀』の記述においても、もはやこの件に言及することはない。しかし終わっていなかった。わずか半年後に履中天皇は崩御してしまうのである。おそらく『日本書紀』の編者はこれが祟りによるものとは考えていない。しかし中村啓信『新・古事記物語』によれば、淡路島の大空から聞こえた声は宗像三女神ではなく、伊奘諾神だと解釈できる。天皇は即位前に住吉仲皇子から殺されそうになるのだが、このとき海人族の阿墨連濱子が淡路島の海人を従えて仲皇子の側に付いていたため、後に目の縁に入れ墨をする刑に処せられている。したがって伊奘諾神が「血の臭いが我慢ならない」と訴えたのは、この処罰に対する不満ではないか。また海人たちは蔣代屯倉で労役を負わされており、神の言葉に見える「狭名来田蔣津之命」は蔣代屯倉を経営していた履中天皇のことで、やはり海人たちの処遇に対する不満が祟りとなって表れたと考えられる。
 宗像三女神の祟りで皇妃を失ったと誤解した天皇は、伊奘諾神への謝罪を怠っていた。ゆえに祟りは解除されず、半年後に皇妃の後を追うことになってしまったのである。


8.【大鰒の真珠】
「嶋の神、祟りて曰はく、獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に、眞珠有り。其の珠を我に祀らば、悉に獣を得しめむ、とのたまふ」

 履中天皇の弟で第十九代の允恭天皇も、兄と同じく淡路島において神の祟りを受けている。ここに神の名は記されないが、履中天皇紀に「嶋に居します伊奘諾神」とあることから、こちらの神もおそらく伊奘諾神だろう。ただし「3【河神の祟り】」で触れたように、あまり深刻な祟りではない。履中天皇が前記のように神意を理解し損なったので、その弟に軽く償いをさせたということか。その意味では天皇の側に祟られる原因があったということになるが、因果律の不明な祟りの例は他にも多く見られる。
 允恭天皇は淡路島で狩りを楽しもうとした。しかし動物は多く見かけるのにまったく仕留められない。そこで占わせたところ、島の神の祟りと判明し、明石の海底にある真珠を奉るなら動物を獲らせようと神が提案するのである。そこで一人の海人が潜ると、海底に大きな鰒(アワビ)があって何やら光っているという。これが神の欲する真珠であろうとその海人は再び潜り、やがて大鰒を抱えて浮かび上がるが、力尽きて死んでしまう。確かに鰒の中には桃の実ほどの真珠があり、これを島の神に奉ったところ、天皇は多くの動物を狩ることができたのだという。
 哀れにも巨大な真珠と引き替えに命を落としてしまった海人は、手厚く葬られ、記事の文末には「其の墓、猶今まで存」、つまり現存していることが記されている。『日本書紀』の編纂時にもまだ強く生きていた伝承だったということだ。なお鰒の中に生じる真珠は、武烈天皇即位前紀に「鰒白玉」、また『万葉集』には「鰒珠」と表記されている。

 


9.【浦嶋子伝承】
「遂に大龜を得たり。便に女に化爲る。是に、浦嶋子、感りて婦にす」

 第二十一代の雄略天皇の二十二年に、いわゆる浦島太郎の伝承が記されている。童話として一般に知られる話の元になったのは「丹後国風土記」逸文の記事で、その前半部のみを簡単に書くなら、水江浦嶋子という男が小舟に乗り海に出て釣りをするも、三日三晩たっても魚は釣れず、ただ五色に輝く大亀だけを釣り上げた。そして亀を舟に置いたまま居眠りをしていると、亀は綺麗な女性に変身した。後に亀比売という名前と判明するこの女性は、素敵な男の人がひとりで釣りをしているので、親しくなりたいと思ってやって来たのだという。二人は亀比売の住む神の国に行き、夫婦となって、…という話である。
 こちらの『日本書紀』には右に書いたような前半部の粗筋のみが、より簡素に記述されている。その全文を次に現代語訳してみよう。
「秋七月、丹波国余社郡の管川に住む瑞江浦嶋子という人が、舟に乗って釣りをした。やがて大亀を釣り上げた。するとその亀はたちまち女性となった。浦嶋子は興奮し、妻とした。二人して海の国に入り、蓬莱山をめぐって神仙たちと会った」。以上である。
 そして続けて「語は、別巻に在り」、つまり話は別の書物に記載されているというが、それが何を指すのかは不明。ただし「丹後国風土記」逸文には話を記載するに当たって、「是は、旧の宰伊預部の馬養の連が記せるに相背くことなし」というから、この旧宰の書いたものが『日本書紀』にいう別巻のことかもしれない。伊預部馬養連は『日本書紀』の成立する少し前に活躍した人物である。逸文にはまた、旧宰の手に成る話と同じだからここには概略を書く、とあるため、元の話はより詳しかったようで、現存していないのは残念なことだ。また『万葉集』には高橋虫麻呂の作と思われる長歌「水江の浦の島子を詠みし一首」(一七四〇)がある。ただし舞台は住吉の岸に変わり、亀の姿で神女が島子の前に現れたという設定はなく、逸文でも『日本書紀』でも語られない嶋子の最期が「命死にける」と明記されている。


10.【毛野臣の盟神探湯】
「毛野臣、楽みて誓湯置きて曰はく、…。是を以て、湯に投して爛れ死ぬる者衆し」

 神に誓った上で熱湯に手を入れる、または焼いた斧を掌に置き、火傷をしたらその人の言っていることは嘘である、と判定する神判を『日本書紀』では「盟神探湯」もしくは「探湯」と表記し、三例が伝えられている。最初は応神天皇の九年に讒言をめぐって武内宿禰と甘美内宿禰の間で、次は允恭天皇の四年に氏姓の乱れを正すために行われ、この二例はともに理想的に機能したという。
 ただしこの二例は伝承上のもので、現実的には悲惨な結果しか招かない。『日本書紀』に記された三例目の盟神探湯は継体天皇の二十四年に記された、近江毛野臣による、まさに現実的な旧習である。なお、この記事には盟神探湯や探湯の語は用いられていないが、内容からそれと知られる。
 任那に派遣されていた毛野臣について、帰朝した使者が報告した。それによると政治にはあまり力を入れず、日本人と任那人とのあいだに産まれた子の帰属をめぐる訴訟に、「実ならむ者は爛れず。虚あらむ者は必ず爛れむ」と言って誓湯(ウケヒユ)を用いているという。この毛野臣の言葉と誓湯の文字から盟神探湯のことと理解されるわけだ。しかしこれによって熱傷で死ぬ者が多かったといい、熱湯に入れたのは手だけではなかったか、あるいは手の熱傷からの細菌感染による死なのであろう。
 近江毛野臣が時代錯誤の盟神探湯を好んだのは、自身の出自によるものと思われる。『古事記』によれば「淡海臣」は建内宿禰の流れで、つまり前記の盟神探湯により讒言を退けた武内宿禰の血筋だからだろう。政治に身を入れず、盟神探湯で多くの人を死なせていることが報告された毛野臣は帰国を命じられるが、なかなか応じようとせず、途上の対馬で病となり没した。


 

11.【継体天皇の崩御】
「又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり」

 継体天皇は体を継ぐという漢風諡号にも表現されているように、途絶えかけていた皇統をつなぎ止める即位を果たした天皇である。応神天皇の五世の孫といい、ようやく捜し出されたこの皇位継承者に「天子の鏡剣の璽符」が奉られることになったわけだが、即位に際して神器を受け継いだことは必ずしも代々の天皇の記事に明記されているわけではない。継体天皇より以前の場合、第十九代允恭、二十二代清寧、二十三代顕宗の三天皇のみに記述されていることで、しかもそれらは単に「璽符」や「璽」という漠然とした言葉だけである(regalia のページ参照)。それがこの継体天皇になって初めて右記のように、鏡と剣といった言葉が用いられている。その理由について、怪しげな無理のある継承ではなく正当であることを強調するための潤色ではないかとも指摘されるが、果たしてどうだろうか。
 さて継体天皇は神器を受けた後、二十年後にようやく大和国に入った。血統についてはともかく、国の内外に問題が発生しており、政情不安が原因ではあろう。それから僅か五年後、二十五年に病となって崩御したことが簡単に記述されているのだが、この崩御について『日本書紀』編者は次のような異伝と説明を割り注で付けている。現代語で要点のみ示すなら、「ある書物には二十八年に崩御したという。しかしここに二十五年と書いたのは、『百済本記』に拠ったからだ」。これは、ある書物より『百済本記』(ともに今には伝わらない)の方が史料として信頼できると考えてのことだろう。問題はこれに続く記述である。それが冒頭に引いた文章で、日本の天皇、皇太子、皇子がともに亡くなったとも伝えられる、というのだ。政情に絡んだ謀略等の結果か、または食中毒や伝染病といったものによるのだろうか。ただ『日本書紀』の正規の記事としては、長子の勾大兄皇子が継体天皇のあとを嗣ぎ、第二十七代の安閑天皇となっている。二十五年の春に継体天皇が勾大兄皇子を天皇とし、その日に継体天皇は崩御したというから、初めて記載された譲位による代替わりである。単に病の中で死を覚悟しての譲位だったのかもしれないが、いずれにしても継体天皇には即位と崩御に、特例と謎が見られる。


12.【佐渡島の怪事】
「其の皮甲、二の人に化成りて、火の上に飛び騰ること一尺餘許、時を經て相闘ふ」

 第二十九代の欽明天皇五年のこと。この時期は全般的に朝鮮半島との関わりにおける記事、そして仏教の受容にまつわる記事が多い。五年の記録もほぼすべてが百済や任那、また任那日本府関連のもので、ここに挙げた佐渡島における怪異が唯一の例外である。
 越国からの報告として、佐渡島で次のようなことがあったという。次に要約してみる。
 島の北、御名部の海岸に粛慎(みしはせ、蝦夷か)の人が船で駐留し、魚を獲って食料としていた。里人らは、あれは人ではない、鬼だろうと近づかなかった。島の東の里人が椎の実を拾い、食べようとして焼いたところ、皮が二人の人になり、火の上で一尺ほど飛び上がって戦い始めた。不思議に思って庭に置いていたが、戦うことを止めなかった。ある人が占うには、「この里の人たちは鬼に惑わされるだろう」という。その通りに程なくして里人らは鬼にかすめ取られた。粛慎人らは瀬波河浦に移るが、浦の神は激しい神だったので、里人たちは近づかなかった。喉が渇いてその水を飲んだところ、半分ほどの粛慎人が死んでしまい、その骨は岩窟に積み上げられた。土地の人はそこを粛慎隈と呼んでいる。
 よくわからない話だが、おそらく逗留していた粛慎人の多くが水にあたって死んだこと、および椎の実の皮が人に化身して戦ったことは、元より無関係の出来事だろう。里人が鬼に攫われたという説明は「其に抄掠めらる」というのみで、他の箇所に比べて一層の具体性に欠けているため、ふたつの出来事が占いの言葉によって結びつけられて理解されたかと思われる。見慣れない異人を鬼と考えるのは無理からぬこととしても、木の実の皮が人になって戦かった様を見たというのは、何か幻覚を生じさせるものまで一緒に焼いてしまったからだろうか。


 

13.【蘇我稲目と神道】
「神の宮を修ひ理めて、神の靈を祭り奉らば、國昌盛えぬべし。汝當に忘るること莫れ」

 仏教が公的に日本へと伝えられたのは、『日本書紀』に拠る限りは欽明天皇の十三年、西暦五五二年とされる。この仏教をめぐって、受容派の蘇我氏と拒絶派の物部氏との対立があったわけだが、その対立は蘇我大臣稲目宿禰と物部大連尾輿、また中臣連鎌子に始まる。
 百済の聖明王から仏像や経典が贈られ、天皇は非常に喜んだ。しかし本当に仏を崇拝して良いものかどうか判断に悩み、意見を求めたところ、近隣の国々ではみな信仰しているからと蘇我稲目は受容の意を示し、対してわが国の神々の怒りを買うのではないかと物部尾輿や中臣鎌子は危惧する。そこで天皇は試しにと稲目に仏像等を託すことにした。稲目は喜び、寺を整えるなどして礼拝供養させるが、やがて疫病が流行して多くの死者を出し、なかなか鎮まらない。なので天皇は尾輿や鎌子の意見により、仏像を難波の水路に流し棄て、寺を焼かせた。すると今度は穏やかな天候なのに急に大殿に火災が起こった。崇拝しても流し棄てても災禍を招いてしまったのである。この段階での仏教に対する評価が『日本書紀』に語られることはないが、翌年に大阪湾から仏教の楽の音が聞こえるなど奇瑞があったため調べると、光り輝く楠木が浮かんでおり、天皇はこれを用いて仏像を作らせたというから、拒絶に固まっていたのではない。あるいは流し棄てた仏像に対する謝罪の意味だろうか。
 さて、蘇我稲目は右記のように仏教受容派として知られる。しかし欽明天皇紀には冒頭に掲げた「神をしっかりと祀るなら国は栄えるのです。忘れてはなりませんよ」という言葉が、「蘇我卿」のものとして記されている。対話の相手は百済国王子の恵である。聖明王が新羅によって殺されたことの報告および武器の賜与を願っての来朝で、そのような場にいる蘇我卿とはやはり大臣の稲目であろうし、この欽明天皇紀に記される蘇我氏の人物は稲目の他には見られない。仏像を祀って災禍を招いてしまったと思われたことにより、神祇崇拝の意義を悟ったゆえの言葉だろうか。もしそうだとすれば、ここに稲目の名を明記することが避けられているのは、崇仏派であるはずなのにこのような言葉はおかしいと『日本書紀』の編者が判断した結果なのかもしれない。


14.【蘇我馬子と仏教】
「蘇我大臣、患疾す。卜者に問ふ。卜者對へて言はく、父の時に祭りし佛神の心に祟れり、といふ」

 仏教を排除しようとする勢力と崇仏派の対立が激化し、また権力中枢への仏教の浸透が進んでいくのは蘇我稲目の子の馬子が大臣となってから、第三十代の敏達天皇以降のことである。なお稲目は欽明天皇三十一年に亡くなり、同天皇もその翌年に崩御している。仏教の受容史は隙間の話ではないが、前回との流れからどのように展開するのか、確認のため概観しておきたい。
 馬子は敏達天皇十三年に仏像や舎利を手に入れ、尼僧に祀らせ、また仏殿も造営した。『日本書紀』ではこれを「仏法の初」という。しかし翌年の春、馬子は病となったため占ったところ、父の稲目が祀っていた仏の祟りとされる。難波の水路に流し棄てられた仏像の怒りが解けていなかったということか。そこで馬子は仏像に延命を祈願するも、再び疫病が国内に拡がり、多くの人命が失われた。
 このような状況において仏教の排除へと動いたのが、物部尾輿の子の物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫である。中臣鎌子と勝海との関係は不明ながら、欽明天皇の際の対立が子の代にもまた沸き起こったということだ。守屋と勝海は、疫病の災禍は蘇我氏が仏教を広めようとしているからではないか、と奏上し、明らかにその通りだから仏教崇拝は止めるべきと天皇は理解を示した。
 そこで守屋は寺や仏像を焼いて難波の堀に棄て、さらに尼僧たちを捕らえて鞭打ちで罰した。が、それでもまた前回と同様、事態は収束しない。今度は天然痘が流行し、多くの人が「身、焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」と嘆きながら死に、「是、仏像焼きまつる罪か」と言い合ったという。
 次の展開もまた似たこととなる。天皇は仏罰による災禍を思ったのか、結局は仏教に対する全面的な否定に至ることはなく、十四年の夏六月に馬子が自身の病気を癒すには仏教に頼るしかないと奏上すると、他の人が崇拝するのでないなら許可するとして、尼僧らも馬子に戻している。敏達天皇は即位前紀に「天皇、仏法を信けたまはず」と評価されているが、たびたび起こる災禍と仏教との因果関係はあくまでも卜占による判断とはいえ、新しい信仰にどのように対処すべきかといった判断は、なかなか定まらなかったようである。なお、敏達天皇はそれからほどない同年秋に崩御し、続く用明天皇の代に馬子と守屋の対立は更に深まり、結局は厩戸皇子らの加担する馬子側によって守屋は討たれることになる。


 

15.【雷神と小魚】
「其れ雷の神なりと雖も、豈皇の命に逆はむや」

 第三十三代の推古天皇二十六年のこと。朝廷の命によって大船を造るため、河邊臣が安芸国に遣わされた。ある山で良い材料となる木を見つけたので切ろうとすると、某人が「これは霹靂(かむとき)の木だから切るべきではない」という。「青天の霹靂(へきれき)」という慣用句で知られるように、霹靂とは激しい雷のことである。おそらく、落雷がよくあったために地元では雷神と結びつけられていた木なのだろう。しかし河邊臣は「いかに雷神とはいえ、天皇の命令に逆らえるわけがない」と、多くの供え物をした上で、伐採させた。すると大雨が降ってきて、雷光が走る。
 河邊臣は剣に手をかけ、「雷神よ、人民を傷つけるな。私の身を傷つけよ」と言って天を仰いだが、十数回の落雷があったにもかかわらず、河邊臣は無事だった。すると(雷神は)小さな魚と化して木の股に挟まったので、取って焼き、やがて船は無事に完成させることができた。
 さて、まずは自然の神性よりも天皇の権威が勝るという型の話であることは一目瞭然だ。ただし木の伐採に際して多くの幣物を捧げたという点に、一方的な搾取ではない、自然への敬意の意識が見て取れる。その点では『常陸国風土記』で夜刀神の殺戮を命じた壬生連麿ではなく、追い払いながらも共生を目指した麻多智に近い。しかしながら雷神の化身と考えられた小魚を焼いたという点は、敬意の片鱗もなく、幣物の供進は形ばかりのものだったのかもしれない。
 なお河邊臣の言葉で「私の身を傷つけよ」と右に訳した箇所、「當傷我身」という文は日本古典文学大系本で「當に我が身を傷らむ」と読まれるが、宇治谷孟氏の現代語訳では「かえって自分の身をそこなうぞ」と雷神への警告の言葉のように訳している。小魚となって焼かれるという結末を念頭に置いてのことだろう。だが河邊臣の件の言葉に続いて「十余霹靂すと雖も、河邊臣を犯すこと得ず」とあるからには、傷つくことが予想されたのは雷神ではなく、文字通り「我」の河邊臣のことだと思われる。

 

16.【謎の甘樫丘】
「蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、家を甘檮岡に雙べ起つ」

 権勢を誇る蘇我蝦夷と入鹿が飛鳥の甘檮岡(あまかしのおか)に邸宅を並べて建て、蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷の宮門」と称し、子らを「王子(みこ)」と呼んだという。みずからを天皇や皇族に擬えるほどの驕りを示す逸話のひとつだが、ここではその蝦夷と入鹿の親子については措いておくとして、彼らが家を構えた甘檮岡という地について触れてみたい。
 明日香村の西、北東に延びるこの丘陵は、『日本書紀』の他の箇所で「甘檮丘」「味橿丘」、また『古事記』では「味白檮」「甜白檮」とも記されるが、現在は国営飛鳥歴史公園の区画で「甘樫丘地区」と表記されている。地元では長らく豊浦山と呼ばれていたのだが、近年になって甘樫丘の表記で定着しているわけで、以下、この表記で統一して書き進めることにする。
 甘樫丘が記紀に初めて記載されるのは垂仁天皇記である。言葉を話せない本牟智和気御子が出雲大神を拝むなら話せるようになるという神託があり、その真偽を確かめるため、曙立王が「甜白檮の前」すなわち甘樫丘の先端部で宇気比を行った。神託が正しいか、または正しくないかと問う言葉に従ってそこにある葉広熊白檮を枯らしたり甦らせたりしたという。次に甘樫丘が舞台となるのは允恭天皇の四年、『日本書紀』の表記では「味橿丘の辞禍戸𥑐」、『古事記』では「味白檮の言八十禍津日の前」にて氏姓の乱れを正すため、言葉が正しければ熱湯に入れた手は火傷しないと判断する盟神探湯が行われた。つまりこの丘の岬には言葉の真偽に応じて反応する神格の神がいると認識されていたのであろう。
 この神は辞禍戸や言八十禍津日の名に見られるように、禍の神である。つまり、言葉が正しければ何もないが、間違っていれば禍をもたらすという意味での禍の神である。甘樫丘に添って飛鳥川が流れ、丘の先端部では流れが大きく曲がっている。つまり川の曲瀬(まがせ)がアマガセ、アマカシと変化したと思われるため、この丘の先端にマガの意味が強く意識された結果ではないかと考えられる。丘の東側の地を古くは真神原(まかみのはら)と称したのも、このマガが由来なのかもしれない。
 気になるのは『古事記』で伊耶那岐命が黄泉国の穢れを祓ったとき、その穢れから現れた禍津日神という神との関係である。この神は出自からして、通常は災禍を司る神と理解され悪神と考えられている。言葉の間違いに禍をもたらす甘樫丘の神と、黄泉の穢れから現れた神は、同じ名称でも異なる神格と見るべきか、あるいは神格に変容があったと見るべきか、難しいところだ。
 なお『日本書紀』には第三十七代の斉明天皇の五年、「甘檮丘の東の川上」に須彌山を作り陸奥と越の蝦夷を饗応し、また同三年にも「飛鳥寺の西」に須彌山を作って覩貨邏人に饗応したという。飛鳥寺の西というのは甘樫丘の東麓側である。甘樫丘が見える場でこのようなことが行われたのは、蝦夷たちに服従の誓いがなされたからと思われ、やはり言葉の真偽が丘の神に諮られているのだろう。


 

17.【皇極天皇の御世の天候】
「甲申に雷五昼鳴り、二夜鳴る。…辛丑に雷三東北の角に鳴る。庚寅に雷二東に鳴りて、風ふき雨ふる。…甲辰に雷一夜鳴る。其の聲裂くるが若し」

 第三十五代の皇極天皇は史上二人目の女性天皇である。しかも重祚して三代目の女性天皇ともなる類い希な人生を送っているが、その人生のみならず、二代の治世もまた他に見ないほど動乱の世の中だった。
それは蘇我入鹿が殺害され蝦夷も自害するという、乙巳の変の発生が特筆されるだけでなく、自然環境上の異変も頻発する異様な時代でもあった。まずはこの女帝の皇極天皇としての治世から見てみよう。
 即位から程ない元年三月に「雲無くして雨ふる」「是の月に、霖雨す」、また同年六月には小雨はあったが日照りが続く、といった具合に、雨の有無に関する異常を示す記述が多く残されている。日照りが続いた翌月には、蘇我蝦夷が寺院に降雨を祈らせ自らも祈るが、小雨が降っただけで終わってしまった。そこで次に天皇が祈ったところ、雷鳴と共に大雨となって潤ったため民は喜んだという。この場合に限っては、良い意味での自然現象が天皇と結びついている。
 しかし天候の異常は続き、地震も頻繁に発生するようになる。同年十月には「庚寅に地震り雨降る。辛卯に地震る。是の夜、地震り風ふく。…丙午の夜中に地震る。是の月に、…雲無くして雨ふる」、十一月には「癸丑に大雨ふり雷なる。丙辰の夜半に雷一西北の角に鳴る。己未に雷五西北の角に鳴る。…甲子に雷一北の方に鳴りて風発る」。そして十二月の様子が冒頭に掲げた如くとなる。さらに二年の正月には、五色の大きな雲が東北東の方角を除いて空一面に拡がり、青い霧が大地の一面に沸き起こる。二月には雹が降って草木の花葉を枯らし、四月まで幾度も強風、雷鳴、氷雨、雹に見舞われている。
 このような不穏な天候や現象が続いていく中で、やがて蘇我入鹿によって山背大兄王らが死に追い込まれることで蘇我氏排除の動きが高まり、乙巳の変へと至る。「是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ」、この日は雨が降って庭に水が流れ込んでいたため、入鹿(鞍作)の遺体を蓆で覆ったという。不穏な風雨の記録が多いのは、この陰惨な光景と連動させる意識が編者にあってのことだろうか。入鹿殺害のときに黙して御殿の中へと姿を消した皇極天皇と、雨と蘇我氏との因縁は、次にこの女帝が即位した御世においても影を引くことになる。


18.【斉明天皇の重祚と崩御】
「是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ」

 大化の改新を行った孝徳天皇の後、皇極天皇は重祚して第三十七代の斉明天皇となる。この女帝が生きた七世紀という時代は、もちろん神代ではなく歴史上の時なのだが、変動激動の時代ゆえか、不可思議な事態も多く生じている。皇極天皇の御世は前述のように天候の異常で、これはいつの世にも起こり得ることではあろう。しかし斉明天皇の御世では些かおもむきが異なる。即位の直後、そして崩御の直前と直後に、まさに怪異と呼ぶべき事件が発生しているのである。
 即位直後の件はさほど異常というものではないが、現実的には怪異に含まれよう。正月に即位したその年の五月、「空中にして龍に乗れる者有り」といい、その人物の装いは唐人に似て、油を塗った青い笠を被っていた。葛城山上から生駒山へと飛んで見えなくなるが、やがて住吉の松嶺から西の方へと去ったという。葛城山や生駒山、飛行して移動する人物といえば、まず役小角が思い起こされる。天皇即位の年は西暦六五五年で、後世にまとめられた小角の伝承によればその生年は六三四年だから、葛城山等で修行を重ねていた時期である。ただし『日本書紀』に小角に関する記述はなく、正史に初めて記されるのは『続日本紀』で、文武天皇三年(六九九)のこととして、葛城山に住む呪術師の役君小角を伊豆大島に流したという。『日本書紀』の件の記事は小角伝承の下地とでもいうべき出来事だろうか。
 怪異らしい怪異は、百済からの救援要請に応じて新羅を討つ準備をしている際に頻発する。まずは駿河国で船を作らせるが、夜中に理由なく「艫舳相反れり」(ひっくり返る、または入れ替わる、反り返る)ということが起こり、科野国では大量の蠅が西に向かい、地域は明記されないが奇妙な童謡が流行った。「まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが」というもので、いずれも不吉な前兆と捉えられた。
 やがて戦闘の指揮のため、天皇の一行は都を離れて九州に滞在することになるが、うちひとつの行宮の朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉市か)で怪異が発生する。この行宮は朝倉神社の木を伐採して建てられたために「神忿りて殿を壊つ」といい、また宮殿の中に「鬼火」が見え、それにより官人や側近の者たちの多くが病となって死んだ。これが七年の五月のことで、七月になると突然、「天皇、朝倉宮に崩りましぬ」となってしまう。病になり臥せるといった記述もないことから、突然死のようだ。そして現地で喪の儀式を執り行っている際の怪異が冒頭の記述で、朝倉山の頂から大笠を着けた鬼が見ていたのだという。このような異様な事態が続く中、半島における戦いにも敗北し、百済の再興も叶わずに終わる。
 さて、一連の怪異の締めくくりに登場した鬼の正体は何だったか。即位の年に龍に乗って「西に向かって」飛んでいった者について、『扶桑略記』では「蘇我豊浦大臣之霊」としている。葛城の地は蘇我氏ゆかりの地でもあり、馬子は推古天皇に「葛城県は元臣が本居なり」として賜りたい旨を願っていた。豊浦大臣は蝦夷を指すが、この葛城山頂に現れた男が油を塗った笠、すなわち雨具を身に着けていたことからすれば、雨の中で蓆が掛けられた最期を遂げた入鹿を思わせ、ならばこの大笠を着けた鬼は入鹿の父の蝦夷ではないかという気がしないでもない。『日本書紀』にそれらの正体は明記されないとしても、都から遠く西に離れた地においての天皇の崩御、そして朝鮮半島における朝廷側の敗北といった衝撃を、蘇我親子の怨念によると示唆しているようである。


 

19.【祟りの宝剣】
「播磨國司岸田臣麻呂等、寶の劒を獻りて言さく、狭夜郡の人の禾田の穴内にして獲たり、とまうす」

 斉明天皇の崩御後、天智天皇はしばらく即位することなく政務を執ることになり、その最初の年に播磨国から宝剣が献上されたという記事。この『日本書紀』の記述だけでは何ということもないが、『播磨国風土記』にその詳細と思しき記事が見える。
 それによれば天智天皇の御世、丸部具という人が河内国の人から剣を買い取った。しかし剣を手にして以来、家族が次々と死に、一家は滅んでしまう。のちにその家屋跡を犬猪という人が畑にして耕していると、土の中から剣が出てきた。柄は朽ちていたが刃は錆びずに鏡のように輝いている。不思議に思った犬猪は鍛治屋を呼び、刃に焼きを入れさせようとしたところ、剣は蛇のように伸び縮みしたため、神性のある剣ということで朝廷に献上したのだという。
 この話は『日本書紀』に記された天智天皇が政務を執り始めた年よりも、以降の出来事のように読めるが、献上されたときはおそらく天智天皇の御世だろう。『播磨国風土記』では右の話に続けて次のように記されている。「後、浄御原の朝庭の甲申の年の七月、曽祢連麿を遣りて、本つ処に返し送らしめき」。のち天武天皇の御世に、剣を元の場所へと返したのだという。返還した理由は示されていないが、丸部具の家族が死に絶えたように、何かの祟りが朝廷内に生じたのかもしれない。
 さて、天智天皇に献上された剣が次の天武天皇によって返却されたという話は、もうひとつ類似の話が存在している。『日本書紀』によれば天智天皇七年、草薙剣を盗んだ僧が新羅に逃げようとするが果たせなかったといい、この草薙剣がどこから盗まれ、どのように対処されたのか詳細は不明だが、天武天皇の朱鳥元年には「天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。即日に尾張国の熱田社に送り置く」とある。異論異説は唱えられるとしても、ひとまずは、熱田神宮から盗まれた草薙剣が天智天皇の元で保管され、天武天皇のときになって返却された、と理解されるだろう。『播磨国風土記』で丸部具という人物は剣を手にしたことの祟りのように滅び、『日本書紀』で天武天皇も病という祟りを受けている。この両者の話は「関連するものであろう」とのみ日本古典文学大系本の『風土記』では頭注に記されているが、それがどのような関連であるのか、今のところは措いておくことにしたい。


20.【鼎の音】
「大炊に八つの鼎有りて鳴る。或いは一つの鼎鳴る。或いは二つ或いは三つ倶に鳴る。或いは八つながら倶に鳴る」

 先述のように、都から遠く離れた土地で不可解な最期を迎えた斉明天皇の後を継いだのは、天智天皇である。そしてこの天皇においてもまた、その崩御に際しては記述に不穏な気配を漂わせている。
 もっとも、崩御そのものに不審はない。十年の九月に「天皇、寝疾不予したまふ」という状態となって翌月には重篤となったため、東宮(のちの天武天皇)に後を託す詔を伝える。東宮は固辞して皇后の即位と大友皇子の摂政を勧め、これを了承した天皇は十二月に崩御。やがて壬申の乱によって天武天皇側が大友皇子を討ち即位することからすれば、これらの会話の信憑性は薄いとしても、天智天皇の死そのものに不審な点が見られるわけではない。
 だが、天智天皇紀の巻末、崩御記事の後の末尾に「是歳、讃岐国の山田郡の人の家に、鶏子の四つの足ある者あり」といった記事に続けて語られるのが、冒頭に掲げた現象だ。宮内省大炊寮の釜(鼎)が音を発したというだけのことで、釜鳴神事でも知られるように釜が鳴ることそのものは、さして奇異なことではない。しかしその繰り返しの記述の仕方によって、鼎が頻繁に鳴ることがあった、というだけでない不気味さを敢えて醸し出させているように思える。
 そのためか、『扶桑略記』には天智天皇の最期について、『日本書紀』とは異なる奇怪な話を伝えている。天皇は馬に乗って山に入り、そのまま戻ることがなかったため、崩御した場所もわからない。ただ靴だけが見つかったので、そこに御陵を作ったのだという。蘇我入鹿の殺害を謀り実行した天智天皇、そして入鹿を見捨てた斉明天皇がともに不穏な最期を迎えているらしいのは、明確に主張されていないとはいえ、乙巳の変の激動による目に見えない形での影響が考えられていたのだろう。


 


 以下、随時更新予定

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